通常、イスラーム教徒とキリスト教徒の間で、2つの信条の共通基盤を見つけるために行なわれる対話では、双方にとって不可欠であるいくつかのポイントに焦点が合わせられます。この対話はいつも熱い賛辞と肯定的な所見で締めくくられますが、それぞれの側が対立する形で持っている重要なポイントへの見解を、相手に伝えることにおいては、成功していないなのです。
私たちは、成功をひそかに妨げている主要な要素が、相手側が主張する信条に関する知識の不足であると考えています。知識の不足は誤解と事実誤認につながります。片方の側によって用いられる概念と用語が、もう片方には異なって認識されるなら、これらの異教徒間の対話から大した生産性を期待することはできないでしょう。したがって、この文章では、十分理解されておらず、そのため対話への試みの成功を妨げている、キリスト教徒・イスラーム教徒双方の信条における主張について考察したいと思います。
完全なリストではありませんが、十分なコミュニケーションが取れていないと思われる主なポイントは次のとおりです。
1.「アッラー」は、聖書における神と同じ神か。
2.三位一体とタウヒード(神の同一性)について。
3.イーサー(イエス)の神性と、預言者性の概念。
4.聖典(旧約聖書・新約聖書)の真実性
ここでは、これらの4つのポイントに、簡単に触れていきたいと思います。
「アッラー」は聖書における神と同じ神ですか?
このような対話の場で、キリスト教によってしばしば尋ねられる問いが、「アッラー」という語が、聖書で言及される神と同じ神を示すのか、というものです。この問題に対する答えは、双方で異なります。
イスラームの教えによるなら、天と地を創造され、預言者を遣わされるお方については、クルアーンと同様、聖書においても言及されています。したがってイスラーム教徒にとってこの問いへの答えは、疑いもなく「はい」なのです。
一方で、キリスト教徒が同じほどの熱意を持ってこの答えを受け入れると予想することはできません。それは彼らにとってクルアーンを認めることになるからです。
聖書における神の美名や属性についての言及は、クルアーンで多く見られるそれや、預言者ムハンマドへの言及と比較すると、ほんのわずかです。この属性や美名が同じであるという事実にもかかわらず、キリスト教徒の神への認識は「目には目を」を命じる旧約聖書の神から、新約聖書に提示された非常に情け深い神とで変化します。
キリスト教が「神」という言葉を聞いて即座に思い浮かべる神とどのようなものでしょうか。それらは旧約聖書におけるものでしょうか、それとも新約聖書におけるものでしょうか。
[Lord](主)という語が、キリスト教においては時として「イーサー(イエス)」の意味で用いられることは、ことをより複雑にします。このように、イスラーム教徒とキリスト教徒の間の対話においては、双方は「神」という概念、まさに第一の信条に関する概念において差が生じていることがあります。このテーマにおいてコミュニケーションをとるための鍵は、聖書とクルアーン双方における、そこに言及された神の美名や属性について議論することでしょう。創造主についての記述の類似性は双方を驚かせ、両方の啓典で同じ神が言及されていることを明らかに示すでしょう。
三位一体とタウヒード(神の唯一性)
三位一体という概念は、しばしば、宗教をよく知っている人をも含め、イスラーム教徒によって誤解されるものです。多くの場合それはthree Gods
として認識されます。しかし周知のように、キリスト教は唯一神信仰を説く教えであり、多神教ではありません。
混乱は、三位一体における神格の概念に、三つの異なる属性があるという事実から生じています。
しかしキリスト教信者にとって、これらの三種の属性は、異なる段に属する同じ神性の存在の顕現のようなものなのです。聖書の、最もよく引用される節のうちの一つでイーサー(イエス)は語っています。「父と私は一つである。」したがってキリスト教徒にとってイーサー(イエス)は、地上における神の顕現なのです。これがイスラーム教徒とキリスト教徒の間の、イーサー(イエス)のあり方に関する多くの意見の相違のべースとなっているものかもしれません。しかしこの事実は、キリスト教を多神教とするものではないのです。
ある意味でこれは、対話への活動にとってよい知らせです。最も重要な信条、すなわち神が唯一であるという事実は、双方によってシェアされていることを意味するからです。神は天と地の創造主であられ、全能で全知で、永遠で、私たち皆が崇拝する神であられるのです。
神の唯一性は、この二つの世界宗教で共有される唯一の信条ではありません。非常に長いリストができるでしょう。大部分のキリスト教の宗派において、神は最後の審判の日に我々の行為を裁かれ、我々に永遠の命を用意されておられます。善は報われ、悪は罰されます。
しかし私たちは皆、自分の行為もしくは崇拝行為以上に、主の慈悲に対して望みをかけています。来世や最後の審判の日の概念は、神の唯一性に続く最も重要な、双方の共通事項といえるでしょう。
イーサー(イエス)の神性と預言者性の概念
多くのイスラーム教徒は、イーサー(イエス)の神性がキリスト教において、ほとんどの宗派でどれほど中心的なものであるかを理解していません。イスラーム教徒の話者が、彼のスピーチの冒頭で、イスラームの教えがイーサー(イエス)にどれほど敬意を示しているかということ、彼を最も偉大な神の使いの一人と見なしていることを主張することはそれほど珍しいことではないでしょう。イーサーを神性を持たない存在と見なすことは、キリスト教徒にとって大きな冒涜です。
イスラーム教徒がそれを受け入れないのと同じレベルで、キリスト教徒にとってイーサー(イエス)が神の最愛の息子としてこの地上に送られ、信者の罪のあがないのため十字架にかけられて死んだ、ということは重要な信条であり、キリスト教においてそれは三位一体と同じくらい中心的な信条でもあるのです。イーサー(イエス)は実は私たちと同じ人間であったということを認めるキリスト教徒、あるいは、実は磔(はりつけ)にはされなかったと認めるキリスト教徒は、大多数の教会においては正当なキリスト教の教えを捨てた人と見なされるのです。
一方で、イスラームにおける預言者性への敬意、よく知られた預言者であれ、そうではない預言者であれ、預言者たちに示される敬意は、キリスト教の精神においては共有されていません。旧約聖書は預言者達の罪の行為を多く述べています。クルアーンにおけるそれと対応する記述に対し、旧約聖書で見られる物語で現されている預言者たちの生き方は、神によって選ばれた者らしくありません。
したがってキリスト教徒が、イスラーム教徒と同じくらいの深い尊敬を、預言者たちに対して抱くことは、非常に難しいのです。そのため、イーサー(イエス)を、キリスト教徒との共通基盤を見出すための預言者と見なすことは、二つの理由によって逆効果となるでしょう。第一に、キリスト教徒は神性未満の何ものをもイーサー(イエス)には受け入れないからです。第二に、預言者性というものは、キリスト教徒にとって、イスラーム教徒が認めているほど尊いものではないからです。
この問題における共有できる部分はどこでしょうか。先に述べたように、イーサー(イエス)の神性はイスラーム教徒によっては決して認められるものではありません。またキリスト教徒たちは彼を預言者と呼ぶことを受け入れないでしょう。イスラーム教徒側のより建設的なアプローチとしては、おそらく、イスラームがイーサー(イエス)を約束されたメシア(マシーフ)として、そして神の言葉であるとして認めていると強調することでしょう。
「マルヤムの子マスィーフ・イーサーは」「かれの御言葉であり」(婦人章第171節)
そして、彼が聖なる霊によって強められたと述べられていると示すことでしょう。
「聖霊でかれを強めた。」(雌牛章第87節・253節)
実際イーサー(イエス)は、クルアーンにおいて他の預言者たちの間で非常に特別な位置を占めているのです。
旧約聖書・新約聖書の確実性
聖書のどれ位が、どの部分が神によって示唆(しさ)されたものか、という点においては、キリスト教徒たちの間で多様な意見があります。聖書における全ての言葉が神によって示されたものだと信じる人から、イーサー(イエス)の言葉である部分は赤い字で印刷されているので、それ以外の部分よりは大事だと見なす人まで、多岐(たき)に渡る意見が存在します。
大部分のキリスト教徒は、たとえ赤い文字で記されたイーサー(イエス)の言葉が新約聖書の中でわずかしか見られなかったとしても、聖書全体が神によって示唆されたものだ、という意見を持つでしょう。この意見には同意しない人たちも、少なくとも聖書はよいガイダンスであると見なしているのです。
いずれにしても、どれが神の言葉であるかという定義や、どれが示唆されたものであるか、どれが神のメッセージを伝えた人の言葉であるか、という定義は、個人的なレベルにおいてキリスト教徒の信条の中で重要なものではありません。重要なことは聖書は何千年もの期間にわたって多くの執筆者によって記され、彼らが皆互いを認めている、という事実なのです。聖書をよい導きとしているものはこの事実なのです。
しかし、イスラーム教徒にとって、宗教が信憑性(しんぴょうせい)の疑わしい情報によって成り立つことは、容易に受け入れられることではないのです。全ての言葉が神によって啓示されたと信じられている聖クルアーンと、預言者ムハンマドの人生から読み取られる模範のみから、宗教的規則を得ることができるのです。
従ってイスラーム教徒はここでも、キリスト教の聖書の信憑性に対し、厳しい批判を持ってアプローチすることになります。一般にキリスト教徒は、聖書の一語一語に信憑性が見出されることを必要とはしていません。実際彼らは、66人もの異なる執筆者によって記された聖書においてそれはほとんど不可能だと考えているのです。
本のいくつかの部分が、その布教に専念した聖なる人々の言葉であったり、手紙の形であったり、それらが神の言葉の中に混ぜられていることは、当然よく予想されることであり、また受け入れられるものなのです。
一語一語を検討していくということは、キリスト教徒にとってはイスラーム教徒の友達と議論する時のみ接する新しい概念であり、だからこの問題でイスラーム教徒がキリスト教徒の心に挑(いど)もうとすることは、キリスト教の他の信条基盤への働きかけ以上の意味は持たないものとなります。
この点におけるより建設的なアプローチは、キリスト教の根本的な教えがクルアーンの教えにおいても共有されているという事実を指摘することでしょう。
ムーサー(モーゼ)の十戒は、クルアーンの最初の数章で詳しく述べられています。イーサー(イエス)が、相手が誰であろうとその人に愛と慈しみを示し、その社会において最底辺にいた人々をも包括する吉報をもたらしたことは全て、預言者ムハンマドによって説かれています。
彼らの教えの精神をとおし、かつ、彼らの言い回し以外の表現で、聖書とクルアーンの間の類似性を協調することは、聖書の信憑性を精細に調べることよりもはるかに建設的なアプローチです。我々のキリスト教徒の友人がクルアーンにより深い敬意を抱いてくれることが予想されます。
用語の選択
さらに、用語の選択の単純な誤りが誤解を生じさせる場合があります。英語の同じ言葉が、全く異なる概念をキリスト教徒、イスラーム教徒それぞれの心に思い起こさせることがあります。英語における聖書的な言葉は、それを話す人々の心において長い歴史を持っているのです。クルアーンの英語訳において聖書的な言葉が使用される時、それに含まれる概念が十分に表されることは不可能でしょう。
例えば、[grace][Lord][saint]といった言葉は、キリスト教の伝統に根付く深い意味を持ちます。これらの言葉はアラビア語の[ihsan][Rab][wali]という言葉の訳として使われることがあります。しかしこれらの英語とアラビア語は、正確には同じ意味を持ってはいないのです。[rububiyah]といったようなイスラームの概念は、一語に訳すのは不可能でしょう。
誰かが、これらのイスラーム用語を訳すために造語を使うなら、その訳は本来の教えの味わいと読者の心に及ぼす力を失うでしょう。一方、聖書的な言葉が使用されたとしたら、それらの言葉における聖書的含みが理由となり、キリスト教徒の心を掴むことができないでしょう。
だから、イスラームの概念をキリスト教徒に伝えるうえでは完璧な翻訳が必要だと考えるべきではないでしょう。歴史をとおし、多くの文化においてもそうあってきたように、イスラームがネイティブスピーカーの間でもよく理解されるような独自の語彙(ごい)を英語において確立するには、長い時間が必要となるでしょう。西洋におけるイスラーム教徒の短い歴史を考慮するなら、特に英語を話す国におけるイスラームメディアの成長とその流通は、とても励みになるものといえるでしょう。
終わりに
対話のための誠実な努力は、相手の信条の基礎や、彼らにとって大切なことを学ぶことから始められるべきです。私達の意見では、キリスト教徒とイスラーム教徒との対話においてここで示した4つのポイントにおいて慎重に振舞われるなら、それはより建設的、生産的なものとなるでしょう。
まずイスラーム教徒は、イーサー(イエス)について言及する時、十分に気を使う必要があります。イーサー(イエス)はキリスト教の預言者であるだけではなく、キリスト教がその上に構築されている、キリスト教徒にとって全てであるといえるのです。イーサー(イエス)を預言者と呼ぶことは、キリスト教のまさしく基盤を攻撃することであるのは明らかであり、それは避けられるべきです。さらに、三位一体はしばしばイスラーム教徒に誤解されている概念です。
しばしばイスラーム教徒によって指摘されるように、キリスト教の牧師はそれを自分たち自身に説明する点でも苦労しているのは事実です。ただしこれは、三位一体、特にイーサー(イエス)の神性がその信者たちにとって取るに足らない問題である、ということを意味するものではありません。逆に、それはとても大切なものであり、キリスト教徒は疑問を抱くことなくそれを心に抱いているのです。それは論理ではなく、信条なのです。だからイスラーム教徒は論理でこの点を説明しようとするべきではありません。キリスト教徒と共通の基盤を見つけるという観点からは、ここで得られるものは何もありません。もしここで主張を行うならば、それは関係を壊すものとなるでしょう。
またキリスト教徒側は、イスラーム教における一定の概念、特に預言者性、神の特質、神の美名といったものに注意を払うことを彼らの課題とすることができるでしょう。彼らがイスラームを学ぶなら、キリスト教徒と比べ、イスラーム教徒の心において預言者がはるかに高い地位にあることが明白となるでしょう。
またクルアーンで言及されるアッラーの属性も、聖書にみられるものと異なっておらず、ただ聖書よりもクルアーンにおいてより多く、神がどのようなお方かという情報が存在するのです。イスラーム教徒が、旧約聖書に出てくる預言者に対して持つ信仰、そしてイーサー(イエス)の再臨に対して持つ信仰は、キリスト教徒がすぐに見出すことのできる2つの重要ポイントでしょう。
先のリストであげたことよりも前に、これらのポイントについて考えることが、対話を成功させるためのよい出発点といえるでしょう。

