イスラーム Q&A

 

 アッラーはなぜ、人間を同一に、均一に創造されなかったのか?

 

アッラーはなぜ、人間を同一に、均一に創造されなかったのか?
一部の人が金持ちで、一部の人が貧しいのはなぜか? 一部の人には肉体的問題はないのに、一部の人にはなぜ障害があるのか? 一部の人は災いにあい、一部の人は安楽な生活をおくっているのを目にすることができる。これらにおける英知や要因は何か?

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災い、苦難、病、障害は、そのわずかな一部は害であったとしても、それらのもたらす結果を考えるならば、この上なく有益なものであると言える。なぜなら、我々は時々しつけのために子供の耳を引っ張る。体を助けるために壊疽状態に陥った指を切断する。必要となれば蛇の毒から薬も作る。これらに対して異を唱える人はないだろう。なぜなら、もたらされるであろう大きな益のためには小さな害をこうむることはよしとされているからである。

鷹のような鳥は、すずめの逃げる能力を向上させる。しかし一見、すずめを怖がらせ、おびえさせているようである。時には、雨や、電気や、火によって害を受ける者がいる。しかし全般的な効用があるゆえに、誰も雨や電気や火を呪ったりはしない。断食も、一見体にとって苦痛であることは認められる。しかし断食は、体に強さと活力を与えるものであるのだ。兵士たちにとっての軍事教練も同じようなものといえよう。

ここで我々の魂について考えてみる。それもまた、病や困難によって純粋化され、透明化され、結果として天国にふさわしい存在になるのではないか。この結果というのは、軽視されるべきものではないものである。わずかなものを得られ、多くのものを与えられることは、アッラーの崇高さによるものである。アッラーは、必要であれば我々の目や足を取られ、その代わりに殉教というものを与えられるのだ。我々の財産を取り去られ、あの世で豊かな恵みによって報償を与えられる。忍耐を強い、その見返りに無限の善行を恵まれるのである。


病や災難、苦難に耐えること、我慢することは、宗教的実践の消極的な範囲だとされる。そう、これらによっても人は、善行を得るのである。これらには、偽善であるという恐れはない。なぜなら誰も、見かけのために病気になろうとはしないからである。

災難や苦難は、人の段階をも高めるものでもある。高い山に登ると酸素が薄くなり、人の胸は苦しくなる。雪や、嵐や、暴風は、どこよりも多く、高山の山頂で見られる。だから、最も厳しい苦難は、預言者たちや聖人たちのような崇高な栄誉をもつ人たちが受けてきた。崇高さに道が開かれていた人たちも、この形で頂点を極めていったのである。

災難や苦難は、人々に恵みの価値を教えるものであり、感謝の道をも開く。空腹はパンを価値あるものとする。断食明けの食事の際は一杯の水がどれほどおいしいことか。病人は健康の価値をよりよく理解して感謝する。同様に、何かの器官が欠損した人は、それ以外の器官の価値を理解する上で、他人よりも近い道をいくことになる。

人は、我欲や悪魔といった敵に対して常に警告を受ける必要がある。そう、災難や苦難は人のためにこの任務を果たす。人を、罪に対して警告し、守るのである。他人の田畑に入ろうとしている羊に対して、慈しみ深い羊飼いが投げる警告の石こそが、信者にとっての災難や苦難なのだ。お金を持ち、健康である人が罪を犯すことはより容易である。しかし貧困や病は彼をそのような堕落から守る。

さらには、病を得たり、災難にあった受難者が、自分の無力さを理解し、おごりやうぬぼれといった病状から救われる要因ともなりえる病や災難は、その人にとって特効薬の価値を持つ。中には、苦難のみがその償いとなりえる罪もある。そう、風が木から葉を散らすように、多くの災難や苦難は人から罪を払い落とし、清らかな状態にする。清らかな地である天国には、ただこのような清らかな者のみが入るのである。

問題をもう少し特定して語るならば、一つの集団が成熟する過程で直面する災難や苦難が果たす役割はとても大きいものであり、同様に貴重なものでもある。教えを伝える奉仕を担う、見返りを求めない献身的な魂を、未熟で利己的な者たちから区別するために、アッラーは様々な試練によって伝道を行なう人々を激しく揺すぶられ、ふるいにかけられる。純粋で清らかな者を、それ以外の者から区別するためである。途中でこぼれ落ちてしまう弱い性質であれば、最初からこぼれ落ちるようにと。将来、重要な局面で破滅を迎えることのないようにと。

災難や苦難は、時には全般的なものとなる。このような災難は、罪のない者たちをも道連れにする。なぜなら試練の神秘とは、こういうあり方を必要とするからである。罪のない者はあの世において、その意志にふさわしく復活する。そうでない者も同様である。

あらゆる事項にも関わらず、災難や苦難というものは望まれるものではない。ただ、それが訪れた時に、忍耐され、こらえられるべきものなのである。「あなたの恵みもすばらしい。あなたの罰もすばらしい」といえるということはまた別の段階の話である。

実行される罪や反抗は、災難や苦難へ招待状を送るようなものである。過去、多くの民族の滅亡の原因となったのも、彼らが犯した罪である。この種の災難や苦難に対して防護の役割を果たすのは、自らの罪に対して泣くように他人の罪に対しても涙を流すことのできる、真の魂の細やかさを持つ、心の勇者たちである。
 

 

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