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『それで、夕暮れに、又暁に、アッラーをたたえなさい。天においても地においても、栄光は彼に属する。午後遅くに、又日の傾きどきに。』 聖クルアーン、ビザンティン章17−1
節
兄弟よ。あなたは日に5回の祈りの時間がなぜ指定されているのか、それにはどんな英知が含まれているのか、たずねた。わたしは、そのたくさんの英知の中から、ほんの一部分について述べてみよう。
それぞれの祈りの時間は、地球の公転におけるそれぞれの時間の区分の始まりを示しているのと同時に、神の力と、普遍的な神の摂理の鏡でもある。それで、さらなる賛美でもって全能の神をたたえることが定められている。そして、それぞれの時間の区分の間で蓄積された神への賞賛と感謝で神をたたえることが定められているのである。それが規定された礼拝の意味である。この、少々微妙で、そして深い意味を理解する為に、あなた方は、次の五つのポイントを私自身の精神と一緒に、聞いてほしい。
第一のポイント
礼拝とは、全能の神に、賛美、賞賛、感謝をささげることである。神の崇高さの前に、スブハーナッラー(アッラーに栄えあれ)と唱えることは、神をたたえ崇拝することである。そして、神の完全性の前でアッラーフアクバル(アッラーは偉大なり)と宣言する事は、神を賛美することである。そして、アルハムドリッラーと唱えることは、神の完全なる美しさの前に感謝をささげることである。賛美、賞賛、感謝は礼拝の核のようなものである。そのため、この三つの言葉は礼拝の全ての部分で、全ての動作と動きに存在する。それらの神聖な言葉を強くする為に、礼拝の後でそれぞれを三十三回ずつ唱えるのも、そのためである。礼拝の意味は、この三つの焦点によって確証される。
第二のポイント
祈りの意味はしもべが彼自身の欠陥と無力さを知り、神の法廷で、アッラーの完全性を前にして愛と驚愕のうちに屈服することである。つまり、神が絶対的に最高であることは崇拝と服従を要求するのと同時に、そのしもべが赦しを請うことによって、そして神への賞賛によって、自分の欠点に気づくことを求めているのである。そして、神をたたえ、アッラーに栄えあれと唱えることは、彼を支える存在が清く、まったく欠点がなく、高く、人々の誤った考えから遠く、神聖で、この宇宙においてまったく非のないことを宣言することを、アッラーの神聖さは求める。
同じく、神の完全な力は、しもべが彼自身の弱さと他の被創造物の無力さを理解することによって、神がなされたことの威厳を前にして、賞賛と驚きのうちに神が最もすばらしいということを宣言することを要求する。そして深い謙虚さの中で頭を下げることが、神への逃避を求め、その信頼を神におく。同じく、神の慈悲の無限なる宝庫は、しもべが懇願と祈願の言葉を通して、彼自身の必要とするものと、他の被創造物の要求、窮乏を知らせ、そしてアルハムドリッラーと口に出すことによって、彼を支えるものの恵みと賜ったものを明らかにすることを求める。すなわち、礼拝の言葉と動作はこれらの意味を含んでおり、そして、神によって定められたものである。
第三のポイント
人間が、偉大なる宇宙のミニチュアの例であるのと同様、ファーティハ章は偉大なる聖クルアーンの輝かしい例である。それで、定められた礼拝は全ての崇拝の、広い意味を持つ、輝かしいインデックスであり、被創造物の全ての階層の崇拝の陰を示す地図である。
第四のポイント
一週間を示す時計の針の秒針、分針,時針、そして日を示す針は、それぞれ、お互いがお互いの例であり、お互いの後に従う。この世界の全能なる神の時計の秒針のようである夜と昼の移ろいも、分針のようである年の移ろいも、時針の用である人間の寿命の段階も、日を示す張りのようであるこの世界の寿命の段階も、全てそれぞれがお互いを当てにして、お互いの例であって、おたがいに似ていて、おたがいを呼び起こすのである。たとえば;
ファジュル、早朝。日が昇るまでのこの時間は、春の始まり、母の胎内での受胎の瞬間、天と地の創造の最初の六日間に似ていて、それらを心に思い起こさせる。それは、それらの中に存在している神の偉業を呼び起こす。
ズフル、正午を過ぎたとき。これは、真夏、若さのすばらしさに似ていて、それらを示している。この世の歴史においては、人間の創造の時期であるといえる。
そして、それらが含んでいる慈悲と恵みの顕現を心に訴える。
アスル、午後。これは秋のようであり、老年期のようであり、至福の時代として知られている最期の預言者の時代のようである。そして、それらの中に存在する、慈悲深い神の行為を思い出させる。
マグレブ、日没の時。秋の終わりにおける多くの創造物の消失、人の死、復活の始まりにおけるこの世の破壊を思い起こさせることによって、心に、神の栄光と、神への屈服、そして人は不注意なまどろみから目覚める。
イシャー、たそがれの時。黒い覆いによって昼の世界の全てを覆い隠す闇の世界を思い起こさせることによって、そして冬が、その白い礼服によって、地上の死者たちを隠し、死んでいったものの残した業績までも、忘却のベールに覆われることを思い起こさせることによって、そして、試練のステージであるこの世界が沈黙のうちに閉じられていくことを思い起こさせることによって、力強く、輝かしく、全てを支配する存在を宣言する。
夜は、冬と墓、この世とあの世との間にある世界を心に思い起こさせることによって、人間に、人間の精神がどれほど貧窮しているか、最も慈悲深い存在をどれほど必要としているか、思い出させる。そして、テヘジュットの礼拝は、それが、墓場の夜、この世とあの世の間の世界の暗さにおいてどれほど必要な光であるかを人間に知らせる。それは警告でもある。そして、真の与え給うものの無限の恵みを思い出させることによって、神が賞賛と感謝にいかに値するかを言明する。
そして再び朝。これは、復活の朝を思い起こさせる。夜の後の朝が、妥当で、必要な、そして確かなものであるなら、この世のあの世の間の世界に続く復活の朝と春は、それと同様なのだ。
つまり、ちょうどこれらの五つの時がそれぞれ重要な局面をポイント付けし、大きな変化を思い起こさせるように、日々の、驚くべき神のなされる業は、それぞれの年、時期、時代における神の力の奇跡、神の慈悲の授けものを思い起こさせる。すなわち、規定された礼拝は生まれながらの義務であり、信仰の基本であり、それらは最も適切で、それぞれの時間に適しているのである。
第五のポイント
本来人間は非常に弱い。それにもかかわらず、多くのものが彼に影響を与え、彼を嘆かせ、深く悲しませる。同じく彼はまったく無力である。それなのに、彼を苦しめる災難と敵は数多い。同じく彼は多くの欠点を持つ。それでも、彼の要求は実に多い。同じく彼は怠け者で、無能である。しかし、その責任は大きい。 しかし、彼があいするものや親しんだものの消失は彼に苦痛を与える。同じく彼の理は高い目的と永続的な成果を彼に示す。にもかかわらず、彼のできることは少なく、命は短く、力はなく、辛抱強さは不十分である。
早朝、ファジュルの時間において、精神が栄光なる力の神に頼り、嘆願し、礼拝によって成功と援助を神に求め、その日彼のみに起こるであろう出来事や、彼の背に乗せられるであろう重荷のために助けを求めることは、いかに不可欠なことか、明らかに理解されるであろう。
ズフルの時間、それは、正午を過ぎたばかりのときであり、一日の絶頂期であり、その衰えの始まりでもある。毎日の仕事が到達点に近づくときであり、仕事の圧力からの短い休憩のときである。苦労したことによる不注意や無神経さからの休憩を、精神は必要としている。そして、神の恵みが明らかにされるときでもある。人間の精神の為に、この正午過ぎの礼拝がどれほどすばらしく、快く、必要なもので、そして適切であるか理解することはできるだろう。プレッシャーから逃れ、不注意さを振り払い、無意味な、はかないことを脇へよけて、神の栄光と偉大さの前に自分の無能さを示してひれ伏し、神からの助けを求める。全ての恵みの為に賞賛と感謝をささげる。ひれ伏して、彼の愛と、驚嘆と、謙遜さを訴えるのである。これを理解しない人は真の意味での人間とはいえない。
午後の、アスルの時間について。それは、秋の物悲しい季節、哀しみに沈んでいる老年期、そして時の終わりの憂鬱なピリオドを思い起こさせる。日々の出来事が終末を迎えるときでもある。力強かった太陽は、沈み始め、人間はただの客であり、何もかもがはかなく不実であることをほのめかす。人の精神は永遠を切望し、情け深さを崇拝し、別れによって苦痛を与えられる。真の意味での人間性をもつ人なら、このようなことを理解できるだろう。
午後の礼拝は、人にとって崇高な義務であり、適切な奉仕であり、人間としての負債を返す為にふさわしい方法であり、快い喜びである。 永遠なる存在の前で、懇願を申し出ることによって、果てしない、無限の慈悲にすがり、また、数え切れない恵みに、感謝と賞賛をささげることによって、それから神の力の前に深くお辞儀をすることによって、そしてまったくの謙虚さで、無限の神の前にひれ伏すことによって、心と精神の本当の意味での慰めを見つけ、神の壮大さに対して信仰のこころがまえをすることによって。
日没において、マグレブのときは、冬の初めの、夏や秋のすばらしい生物たちとの悲しい別れを思い起こす。それは、死によって、人間が自分が愛するすべてのものを痛ましい出発の中におき残して、そして墓に入るであろう時のことを思い起こさせる。この世界の死によって、その断末魔の苦しみの中に、全ての住人が他の世界へ移っていき、そしてこの試練の場の明かりが消されるときのことを思い起こさせる。はかなく、つかの間の存在でしかないものを崇拝するものたちに厳しい警告を与えるときである。
それで、このようなときにおいて、マグレブの礼拝では、永遠の美である存在を望む鏡である人間の精神は、その顔を、永遠なる力強い王座に向ける。その力が偉大な仕事を実行し、この巨大な世界を変えることのできる永遠の存在に対してである。つかの間の存在に対して、神は偉大であると宣言し、そういうつかの間の存在から離れる。全ての賛美を神に、と述べることによって、人は、彼の主のの恵みの中で手を握り締め、永遠の存在の御前に立つ。
 
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