イスラーム Q&A

 

  クルアーンは、預言者ムハンマドが書いたものですか?

 
今まで、クルアーンはイスラーム教徒の信じるように神の言葉としてではなく、預言者ムハンマドによって書かれたという主張に対して多くのことが 論じられてきました。これに関する最も重要な点に焦点を当ててみましょう。

この特定の主張(ムハンマドによって書かれたということ)は近代的オリエンタリスト(深くイスラーム教の普及に憤慨したクリスチャンやユダヤ教徒の作家)によるもの で、彼らの前任者たちにも主張されてきたものです。けれどもこの主張はクルアーンの中にもあるように、イスラーム教徒にとってはすでに良く知られていることです。クルアーンでは、ジャーヒリア(イスラーム教以前の無知の時代)の異教徒アラブ人が「預言者は意外な事実を作り出している」と主張していたことを記録しています。『われの明白だ印が,かれらに読誦されると,信仰しない者はかれらの許に来た真理に就いて言う。

 

「これは明らかに魔術です。」またかれらは,「かれ(ムハマンド)が,それ(クルアーン)を捏造したのです。」と言う。言ってやるがいい。「もしわたしがそれを捏造したのなら,あなたがたはアッラーから(の恩恵を),何もわたしにあずからせないであろう。かれはあなたがたが,それ(クルアーン)に就いて語ることを最もよく知っておられる。かれは,わたしとあなたがたの,立証者として万全であり,かれは寛容にして慈愛ぶかき御方であられる。』(砂丘章46/7−8)彼らは、最近の似たもの達がするのと同じように、イスラーム教徒達にクルアーンの 著者を疑わせることによって、新しい信仰の盛り上がりから自分達の利益を守ること に必死でした。そして、そうすることによってイスラーム教徒達がクルアーンの権威 をも疑うかもしれないと期待していたのでした。

ここで、数ある経典の中でもクルアーンは2つの非常に重要な点で唯一無二であるこ とを確認しましょう。これはクルアーンの敵でさえも認めなければならないことで す。第一に、クルアーンはオリジナルの言語(アラビア語)で保たれ、この言語はい まだ生きた言語として使用されています。第二に、クルアーンの内容は完全に信頼性 の高いものとなっています。クルアーンは啓示のあった時代から、未改ざん、未編 集、そしてどんな面においても不法に変更されることなく今に至っています。それと 対照して、他の経典はそれらのオリジナルの言語では生き残りませんでした。

 

同様 に、オリジナルで残っていてもその言語は現在生きた使用言語ではありません。さら に、それらの文章は特定の宗派の解釈を促進するために、多くの世代にわたって人間 の手で決定的に編集、再編集されてきました。それらは経典としての権限を失ったと 言えるでしょう。特定のバージョンを作った遠い先祖を持つ人達のための、国民的あ るいは文化的神話の役割でしかないのです。すなわちそれは多かれ少なかれ、かつて は神の本であったものに、西洋学的な意見を含んだものです。約2世紀の 間、西洋の学者は同じように、クルアーンに厳しい精査を受けさせました。しかしな がら、彼らが期待したように、クルアーンも世代を重ねて多くの手による仕事であ る、と言うことを証明するにはいたりませんでした。

 

確かに彼らは、キリスト教徒の 間で起きたようにイスラーム教徒の派閥分裂をみましたが、キリスト教徒とは異な り、戦争中のイスラーム教の派閥間でも一冊のまったく同じクルアーンを参照するこ とで彼らの立場を正当化しようと努めていることがわかりました。いまだ、(聖書の)福音書に ついては消えたか隠された場所から新たな訳が発見されたり、暴露され る可能性があります。それと対照して、すべてのイスラーム教徒は預言者(彼の上に 平安あれ)の死んだ時代(啓示が終わったとき)から、クルアーンが最少の相違もな く完全にオリジナルの言葉で維持されていることを知っています。

クルアーンと同様に、預言者の実際の行いや、教えが広範囲(完全にではない) に保存されています(ハディース)。このハディースには預言者 自身の言葉が記録されています。これらの2つの情報源であるクルアーンとハディー スは表現あるいは内容の質であまり似ていません。預言者が話をするのを聞いたアラ ブ人は信者であったか否かにかかわらず、預言者の言葉は簡潔で、強力で、説得力が あるけれども普段使われている言葉であることに気付きました。それと対照して、彼 らがクルアーンを聞いたときには、無上の喜び、エクスタシー、畏怖の感情によって 圧倒されました。

 

ハディースを読むと、一人の人間が他の人々に対して呼びかけてい る存在を感じます。彼は重要な問題を熟考し、話をするときは、人々を引き付けるよ うに神の畏れを持って話します。一方で、クルアーンは命令的で、崇高で、超越的 で、書き方と内容に威厳があるます。このことから、感覚的にも理屈的にも、 クルアーンとハディースは一つの起源を持ちません。

クルアーンはその観点が絶対的に超越しているため、どんな人間の人工物(文学的であるか否かにかかわらず)とも異なります。時折、他の経典でもいくつかの句 あるいは節を読む際に、読者あるいは聞き手がこのメッセージは創造者から人類にむ けた神のメッセージであると感じます。クルアーンでは、すべての音節が、慈悲深く 全能であられる方からの雄大なコミュニケーションの強烈さをうかがわせます。さら に、クルアーンは人間による業と違って、距離をおいて熟考したり、抽象的に論じら れ、討論されることができません。

クルアーンは私達に理解すること、そして行動を通してライフスタイルを改善するように求めています。それは、私達の本質の深い所に触れることができる神に よってだからこそ、そうすることができるのです。クルアーンでは他に、人間を 精神的、身体的に有能な生き物としてこの現実のなかで扱い、また私達の存在全体が 慈悲深い方の創造物とも述べています。また、クルアーンは私達の1つの才能にではなく、私達の持っているものすべてに宛てられたものです。

 

クルアーンは、哲学的推理、詩的、芸術的な感受性、自然の環境を変えて管理する力、あるいは 政治的、法律上の問題を変えて処理する力、相互の同情の必要と容赦、知識と慰めに 対する私達の精神的な切望だけのために私達を引き込むメッセージではありません。同様にクルアーンは、1人の人間、1つの種族、あるいは1つの国に宛てられたもの ではなく、また、それは男性だけ、女性だけ、あるいは虐げられ弱い者、裕福で強い 者、あるいは罪深く放縦な者、そして徳が高く自制心の高い者だけに宛てられたので はありません。クルアーンは人類全体に宛てられ、そして、神によって、そのメッセージは(保存され)いつの時代でも適切です。

クルアーン的見地のこの超越と豊かさは、それが言及するすべての事柄で感じられる ことができます。例えば、クルアーンは老年者である自分の親を世話することと共 に、神の唯一性を信じることも述べたり、離婚した妻を正しく養う命令を出したすぐ後に、全知全能の神を畏れることも思い出させます。神はそのような二つのことを並べる際、すべての帰結的意味を知っています。イスラーム教徒達もある程度は そうすることの効果を知っています。彼らが、徳の高い行動を着実に、謙虚で快活に行うなら、自分を内面的に変えることができます。また 徳が高い行動を上品なものとし、行動する際に負担をかけずに利益を得ること ができるのです。

クルアーンはその信憑性を疑う者に対して、いくつかの節の中でそのスーラ(章)に 匹敵する章を作れるかと挑戦しています。今までに誰もこの挑戦に勝ったことはあり ませんし、これからもそれはないでしょう。ここまで説明した理由から、神以外の誰 もこのような超越的で、同情的なクルアーンを書くことはできません。人類で最良の 者でさえ、神によって彼らの生命が始まり、終わる−これは生物であるかぎり避けら れない結果であるため、考え方や願望に影響を受けています。それゆえ、遅かれ早かれ、単なる人間の仕事はすべて失敗するか、あるいは影 響と力で色あせてしまいます。流儀は変わり、主張点は的外れになってしまいます。 それらはあまりにも一般的であって、人間の経験の現実に対し十分な適切さに欠けま す、あるいは彼らの特定の事情に左右され、一般論と適用性に不足しています。

 

これ らの理由から、意図が良いか悪いかにかかわらず、人間の頭と手による仕事は限定さ れた価値しかないのです。そうした理由から、今日に至るまでクルアーンの挑戦に 勝った者はいません。たとえすべての人類が、すべての知識源を使って力を合わせた としても、あるいはジン(霊)が、彼らに協力したとしてもクルアーンの一部さえ作 り出すことはできないのです。クルアーンの中ではこう言われています。『言ってやる がいい。「仮令人間とジンが一緒になって,このクルアーンと同じようなものを(西 ?)そうと協力しても,(到底)このようなものを(強?)すことは出来ない。」』(夜の旅章17/88)

クルアーンは創造物の内と外を知り、時間にとらわれない全知全能の方の言葉です。従ってクルアーンはそれが宛てた人間を理解し、実際に教えながら彼らを試みます。 しいていえば、クルアーンは読者を“読んでいる”のです。信者にとって、(クルアーンの言葉の中で)神のメッセージの前にいるという意識は、突然彼らの体内や体 外の温度を変化させ、彼らを震えさせることができるのです。

これまでのところ、私はクルアーンは神によってのみ著作されることができると説明するために、一般的な事実と見地だけを論じました。クルアーンの内容は神以外に書 かれたと疑われる余地はありません。良いか、あるいは良くない意図で、それが人間 の著者の仕事であると主張する人たちはその申し立てを維持することができません。(上で述べたように)クルアーン以外の経典は、それらが人間の手によって変更されたため、私達は偽りだと知っていることを主張しています。

 

例えば、これらの経典では、地球の創造や自然現象について知らされています(例えば、ノアの洪水について)。しかし、それらは私達が星の調査、あるいは化石の調査から、間違えで あることが分かりました。人々が自分の考え方のとおりその経典を変えたため、科学 が進行するにつれ彼らの理解と今の堕落した経典の大部分を、科学に無関係で、時代遅れなものにしました。クルアーンはそれと対照的に、人間の軽視あるいは誤解による結果から、神の法令によって守られています。

神が著者でなかったならば、クルアーンはどうして真実を言えたでしょう。クルアーンが啓示されたとき人々はそれについて最少の知識しか持っていなかったのです。「信仰しない者たちは分らないのか。天と地は,一緒に合わさっていたが,われはそれを 分けた」(預言者章21/30)。 つい最近になって、私達は文 字通りの意味で宇宙の最初の瞬間についてこの節を熟慮することができました。

 

同様 に、私達が今読んでみると以下のことが記載されています。「アッラーこそは,あなたがたには見える柱もなくて,諸天を掲げられた方である。それからかれは,(大権の)御座に鎮座なされ,太陽や月を従わせられる。(だから)各々の定められた時期 まで運行する。かれが凡ての事物を規制統御し,種々の印を詳しく述べられる。必ず あなたがたに主との会見に就いて確信させるためである。」(雷電章13/2)私達は細かい解説なしでも、天体の中にバランスを維持する巨大な遠心力、そして求心力が、見えない柱になっていることを理解することができます。

 

私達はこ れと関連した節から(例:慈悲あまねく御方章 55/5、預言者章 21/33、38,39、ヤー・スィーン章 36/40)太陽と月 が固定された寿命を持っている星であること、それらの光力が薄れた、または薄れていくであろうということ、そして分刻みの正確さでそれらが決まった軌道の上を通っていることが理解できます。これらの節を文字通り理解することによって起きる責任(神を信じること)は衰えることがありません。(あなたは確かに主との面会でそれ を信じるでしょうが)言いかえれば、節の目的(神の存在を示すこと)は変化していないのです。ただ私達の世界についての知識が変化しただけなのです。以前の経典の場合、科学が発展するにつれ、間違いや不適切さが改めて鮮明になってきました。上と対照してクルアーンの場合、この世界に関する知識の発展によって、一つの節を信 じること、理解することは簡単になり、さらに多くの節がいっそう完全にはっきりと 理解できるようになりました。(クルアーンと科学についての例は他の章で詳しく述 べています。pp.29-37参照。)

しかしながら、いまだクルアーンの著者が神ではなく、神の霊によって預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)が書いたと主張する人々がいます。自分たちは道理にかな い、理性があると断言しているその人々は、人間の力で不可能なことを主張していま す。一人の人間がおよそ1400年前に、それ以降異なったルートによって、科学的に確定された真実をどうやって口に出すことができたでしょう?それは人間の力でも可 能でしょうか?預言者はどうやって、最近解剖学的、生物学的な正確さで確認された 哺乳動物組織内のミルクの出来方を分かることができたでしょうか。彼は雨曇や雹が 成形されることをどうやって発見し、風が植物の受精を助けることをどうやって確定し、広大な陸地が移動していること、大陸が形成されては変形することをどうやって説明できたのでしょうか。

 

彼はどの観測所から何の巨大な望遠鏡で宇宙が物理的に 拡大していることを発見したのでしょうか。彼はどのような道具を使って 最も注意深く詳細に子宮の中の胎児進化の各段階を説明することができたのでしょうか。 神を起源とするクルアーンに関して言えるもう1つの奇跡的な面は、過去について述 べたことは絶対的に真実であって、それと同じく、将来についての予測も非常に意義 深いということです。例えば、ムハンマドの親密な友がフダイビア条約(メッカがマ ディーナと交わした条約)がかなり不利だと思ったとき、クルアーンは彼らが神聖な モスク(アル・マスジドゥ・ハラム)に安全に入ることと、イスラーム教は他のすべ ての宗教に勝るであろうことを通知しました(アル・ファトフ章 48/27,28)。クルアーンはローマ人が615年の徹底的な敗北から9年後、ペルシャ人に勝 利することと、その後、信者は当時の世界では最も大きかったこれらの権力の両方に打ち勝つことを宣言しました(ビザンチン章 30/2−5)。クルアーンがこの良い通知を与えたとき、イスラームには40人の信者しかなく、メッカの族長達の薄情な拷問の下でうなり声をあげていました。

クルアーンの著者についての申し立てをする人たちは、彼らの魂を最も大きい危険にさらすのです。神の存在は1つで、度合いに かかわらず共有者はいません。預言者(彼の上に平安あれ)は、人間の中で最も優れ、理想的でしたが、ただの人間に過ぎませんでした。クルアーン自身が彼に演説 し、注意し、慰め、彼を責めました。例えば、預言者が偽善者達を聖戦から免除したとき、クルアーンは彼を批判しました。「アッラーはあなた(ムハンマド)を許した。 何故あなたは,真実を述べる者が,あなたにはっきりして,嘘付きたちが分かる前に,かれら(がその家に留まること)を許したのか。」(梅悟章 9/43)。

 

バドゥルの戦いの後に捕虜を連れて行くことに関しては、このように非難されました「その地で完全に勝利を収めるまでは,捕虜を捕えることは,使徒にとって相応しくない。あなたがたは現世のはかない幸福を望むが,アッラーは(あなたがたのた め)来世を望まれる。アッラーは偉力ならびなく英明であられる。もし前以ってアッラーから下された,規則がなかったならば,あなたがたはその受け取ったもののために,必ず厳しい懲罰が下ったことであろう。」(戦利品章 8/67,68)。ある日預言者が、インシャアッラー(神がお望みならば)を加えずに、神への依存表現しないで、あれこれを次の日にすると言ったとき、神は警告されました :何事でも,「わたしは明日それをするのです」と断言してはならない。

 

「アッラーが御好みになられるなら。」と付け加えずには。あなたが忘れた時は主を念じて,「わたしの主は,これよりも正しい道に近付くよう御導き下さるでしょう。」と言え。(洞窟章 18/23,24)。もう1つの例を挙げてみましょう。「自分の胸の中に隠していたこど(養子の妻との結婚が人の口の端に上がること)を恐れていた。寧あなたは,アッラーを畏れるのが本当であった」(部族連合章33/37)。預言者が家庭内の問題のことで、再びはちみつを使わない、はちみつを飲まないよう決心しました。クルアーンが彼にこう言っています。「預言者よ,アッラーがあなたのために合法とされていることを(アッラーの御 好意を求めるためではなく)只あなたの妻たちの御機嫌をとる目的だけで何故自ら禁 止するのか。本当にアッラーは寛容にして慈悲深くあられる。」(禁止章 66/1)。

他の節でも同じく、預言者(彼の上に平安あれ)により高い任務、責任がクルアーンで明確にされるとき、彼の権威の限界は明らかにされたのです。預言者と啓示されたメッセージの間には、人間と創造者のような明確な距離があります。

オリエンタリストと彼らの支援者はなぜ、これらの証拠に直面してもなお、クルアーンの著者が預言者であると主張するのでしょうか?理由はイスラーム教に対する彼ら の恐れです。クルアーンと結び付けられることのできるたくさんの奇跡があります。私達はここでそれらすべてについて述べることはできませんでしたが、その中で最も 目立った奇跡は、驚くほど短期間で設立された、特色のある永続的な文明社会です。クルアーンはその文明社会のための法であって、すべてを供給していた豊富な枠組 みでした。異なる文化的共同体と諸宗教からなる巨大な帝国を維持するために管理、 法律、そして財政上の改革を要求し、また、自然を調査し、旅をし、異なった民族と 文化を勉強するための真の科学的好奇心を引き起こしました。

 

他にも、クルアーンは人々に商業ベンチャーのためにお金を貸し富が増大する間、 利息制度を絶滅させるよう促し、信者がクルアーンを読み、崇拝準備(身体の清め)できるように前例のない公共の読み書き能 力と衛生プログラムを引き起こしました。また、貧しい人たち、未亡人、孤児 のため、そして捕虜と借金している人達の救援、奴隷の解放、イスラーム教への新しい改宗をサポートするために、余剰の富の組織的な再分配を結成させました。このような例を増やすこともできますが、重要な点はただクルアーンだけが今までこれを達 成させたということです。世界中でも名高いたくさんの人間による業が、これを達成 することはできませんでした。私達は、理想的な社会を設立するため、あるいは継続 するための方法として、何か1つでも良いシステムを知っていますか?あるいは、社 会的、文化的、政治的な相違問題を公正に解決するための「方程式」を知っていますか?それらのどれが短期間で成功したでしょうか?

預言者がクルアーンの著者であると主張している人達は、クルアーンを恐れ、イスラーム教徒の権力と権威を恐れ、イスラーム教徒が再びその指令に従ってイスラーム教の文明を復活させるかもしれないことを恐れる人たちです。もしイスラーム国で先 頭に立っている人々が彼らの申し立てを信じ、クルアーンが過去の人の業であり、従って、もう適切ではないと信じるようになるなら、彼らにはもってこいなのです。 そうなれば本当にイスラーム教を憎み、恐れる人たちの夢は実現するでしょう。

 

イスラーム教徒も大多数のキリスト教徒の非宗教的西洋社会と同じように、宗教を久しい思い出として固執したでしょう。 私達がクルアーンは7世紀に属すると信じるようになったら彼らも喜ぶでしょう。彼 らも信者達をだますために、クルアーンは当時非常に進歩していたと認めるでしょう。ですが彼らは今、クルアーンとイスラーム教は遅れていて、進歩し知的で文化的 自由のライフスタイルを提供するのも、そして文明的であるのも自分達だと言います。しかし、物理科学での進歩がこの世界に関係する質問についてクルアーンの正確 さを確立し、また、私達をよりいっそう完全にクルアーンを理解することができるよ うにする知識を提供したように、人間関係の理解と心理学についての理解の進歩がクルアーンのこれらの質問に対する真実を確立するでしょう。

私達は、主題から広く脇道にそれたように思われるかもしれません。しかし、実はそうではないのです。クルアーンが人間の思いつきによって書かれたものであると申し立てることは、間違えです。それは私達にすべてが与えられ、恩義を受けているという現実を誠実に、また謙虚に受け入れられないという失敗です。私達は自身自身を作りません。私達は神に命を与えられました。私達は熟考し、理解し、哀れむ能力を与えられました。そして私達はそれらの能力を使える異常に微妙で、さまざまに更新可能な世界を与えられました。それと同じく、クルアーンの奇跡は私達への慈悲の贈 り物です。それは人類が自分自身を創り出すことが出来ないと同様、人類によって創 作されたはずがありません。神は、たとえすべての人類が団結して、ジン(霊)の助けまで求めても、彼らが蝿を作ることさえできないと言います。そして同じく、私達はクルアーンの一部分でさえも似たようなものを作ることができないとも言います。

そのため、クルアーンは神の言葉であることを確言します。 私達はクルアーンが、個人またはグループにおいて、イスラーム教徒の生活上の基礎として置かれるべき法と基礎であることを断言しま す。なぜならクルアーンは実に慈悲深いアッラーから人類への慈悲であって、それは永遠に イスラーム教徒の生活に適切であるでしょう。それは、私達が崇拝と服従の中に ある限り、永遠に美徳と幸福に導く生きた指導書となるでしょう。

 

 

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