イスラーム勉強シリーズ

 

 物事が存在に至る有り方について

 
自然は物事を必要とし、自然は物事を作り出す


〔自然は物事を必要とし、自然は物事を作り出す〕
この声明は、多くの不可能を含む。我々は例としてこの中の三つの不可能を述べる。


•不可能3.1


もしも存在で、特に生命のある存在に見られている、明らかで知恵のあるような創造と芸術が永遠な光を我々人間に与えてくれる永遠の太陽、すなわち全知全能のアッラーの出来事でないとすれば−つまり盲目でつんぼで意識のない自然と力の仕事だと言ったらー自然が創造のためにすべての存在の中に無限の精神的な機械や工場を持つ必要が出てくる。あるいはすべての存在が宇宙を創造できる力を持っているということになる。

何故かというと、太陽の明示と反映は地球上のガラスと小さな滴の全ての小さい破片に現われる。もしもそれらのミニチュアの反映された想像上の太陽が、空において太陽の光の出来事とされない場合、中にマッチの丸い先のようなものでさえ入れないぐらい小さい破片の中に実物の太陽の外部の存在を認めなければならないことになり、それにしたがって、小さい破片の数と同じ数の太陽の存在を認めることになる。

 

このように、この世の中のすべての生命体や存在を永遠の太陽つまり全知全能のアッラーが創造したと認めなければ、各生命体の中に無限の力や意志力や無限の知識と知恵を持つ自然か何らかの力か、まるで神のようなものが存在することを認めなければならない。しかしこのような意見は宇宙中もっともおかしい迷信である。宇宙の創造者アッラーの芸術を無意識で重要性のない自然のものとする人間は、真理にどんな動物よりも下等な無意識の生き物になる。


•不可能3.2


もしも最も整頓としていて、正確な計算で、芸術的に形作られている存在を無限に強力な方つまりアッラーが創造したとしなければ、自然の各土の小さな部分にヨーロッパにある工場と同じ数の機械が存在することになるのであるが、このように考えれば数多くの果物や花の原産地となっている土がその果物や花を育てることができるようになる。なぜならば花のための植木鉢の役をしているとなっている少量の土が、中に順番に入るかわるがわる花の種を区別し色々な花を形作る才能があるのは明らかである。


もし全知全能のアッラーが創造したとしなければ、その少量の土の中に各花のための異なる自然的な機械が存在しなければならない。なぜならば種も精子と卵と成分が同じである。つまり水素、酸素、炭素と窒素の無秩序の混合である。それに空気、水、温度や光が全ての物事に対して洪水のように無意識的な行動を取っている。これにしたがってその数多くの花が異なる形をもって、芸術的で規則的にその土から出るということは、その少量の土の中にヨーロッパと同じ数の機械の存在を認めることになる。こうすれば例の生命のあるものや芸術的なものを作ることができる。


結局自然崇拝者達の不信心的な考え方が従って自然主義者という人たちの無信仰している考えがどれくらい理屈に合わないかあなたは理解することができる。


質問:もし“自然が創造したとすればこれほど多くの不可能が出てくる、ものごとが起こるのはものすごく難しくなる。それでは全知全能の唯一のアッラーが創造したとすれば不可能はなぜ消えるのか。それに起こるのがあれほど難しくなった物事はなぜ非常に起こりやすくなるのか?


答え:1番目の不可能で述べたように輝いてるかけらや水滴などの輝きが太陽からいただいている光を映してるものとすれば説明は簡単にいくのであるが、もしその太陽との関係を怠ったらすべてのかけらや水滴の中に非常に複雑な形を持つ小さくて数多くの太陽の存在を認めることになる。同様にすべての存在を唯一のアッラーが創造したとすれば、その存在が必要としているすべての要因を彼だけから求めることになり物事が起こるのは何よりも簡単になるのである。


存在の彼との関係が切断されてアッラーに命じられた任務に従わずに取り散らかって各々存在が放任され自然に任せられたら、宇宙のまるで目次になっている小さな中にある何の認識をも持っていない自然がすべての宇宙を創造し支配もできる力を持っていることを認めなければならないことになるがこれが不可能以上である。
結局、唯一のアッラーに似たものが存在しないように万物を創造することや支配することにも手を出すのは不可能である。


それで不可能3.2にある困難とは:いくつかのリサーレでも証明されたが、もしすべての存在が唯一のアッラーによって創造されたとすればひとつのものを創造するように非常に簡単になるけれど、原因や自然が創造したとすれば一つのもを作るのはすべてのものを作るように難しくなる。これはいくつかの証拠を使って証明された。その中のひとつの証拠とは:


ある人があるお王者に軍人あるいは役人として従ったならば、従ったことによって得た力のおかげで自力の100倍もあることができるようになる。たとえば王者の名前で、ある将軍を逮捕することができるようになる。なぜならばやる仕事や作るものに必要な道具や力を自分で持たないし、持つ必要もない。同様に王者の軍隊と国庫がその道具と力を持っている。したがってその役人の仕事が大きな軍隊が大きなお金を使ってやった仕事と同じレベルですばらしい仕事になれる。小さな蟻が偉いフィルアウン(ファラオ)の宮殿を破壊させるように蝿も同様にネムルードを殺すことができた。そして、その関係を通してほんの少しの小麦のサイズの松の種が、巨大な松の全ての部分を生じさせる。その関係が切断されると、種の創造が、巨大な松の木より強力なパワーと芸術を必要とする。なぜかというと例の松ノ木のすべての部分がその種の中に存在する必要が出てくる。その木の工場が種である。種の中に書き込まれている木が外で形成される。


アッラーとの関係が切断され放任されたら、なすべき仕事に必要な道具や力を自分で持っていなければならない。その時、弱い腕の力と腰についている弾だけでできる仕事をする。関係を持った場合にできる仕事が頼まれたらその仕事をできるために腕に軍隊の全員の力を入れ腰に全員の弾をつけることになるが、何を聞いても笑うような気違いの人でさえこのようなことを聞いて恥ずかしがるのであろう。


要するに:全知全能で唯一のアッラーが創造したとすれば物事が簡単になる。自然が作ったとすれば不可能だし理屈に合わない。


不可能3.3


いくつかのリサーレに載っている次の二つの例がこの不可能を説明する。


1番目の例


ある野蛮人は、大きな砂漠で建てられてそして文明の全ての作品で飾られた宮殿に入った。彼はその室内に目を投げかけて、何千もの秩序ある芸術的に形作られた物体を見た。愚かさのあまり彼がこう言った“外から誰も干渉せずにこの宮殿の中にあるひとつの家具がこの宮殿をすみからすみまで作ったはず。”どう見てもこの宮殿の中に宮殿自体を作れるものはない。それから野蛮人がその宮殿にある家具の数や種類のリストとその宮殿で暮らすためとルールが書かれている一冊の本を見つける。手も目も道具ももっていないその本もこの宮殿を作ったはずがない。しかしほかの物よりしっかりしていて宮殿の情報が色々載ってると思い、ほかの手もないから彼が“この宮殿を建てこの作品を作り飾ったのはこの本であるはず”と言ってさらに自分の愚かさを証明した。


今の例のようにどんなに大きくてすばらしい宮殿よりもきれいで整頓としているこの地球という宮殿に不信心の野蛮人の自然崇拝者が入ってくる。万物を唯一のアッラーが創造したことを拒否し、アッラーがいつも書き換えている文章のようでアッラーが下す命令の掲示板かそれが載っている本のようなものになっている“自然”を見てこう言う:


“もしこれに理由が必要だとすれば、この本より関係しそうなものは見当たらない。まあ、目も手も認識も持たないこの本が全知全能のアッラーの力によって創造できるものを創造するはずがない。しかし、全知全能のアッラーの存在を認めないから、この本がこの宮殿を創造したと言うしかない。”
で我々が言う:


おお!おまえ!間違っている不幸な人よ!あなたの愚かさは、想像できるよりも上回る!自然の沼から頭を救い出しなさい。そして周りを見なさい!原子から星まですべての存在が別々の方法で示している全知全能の唯一のアッラーを見なさい。それにその宮殿を建てその本に宮殿のプログラムを載せたアッラーの美しさを見なさい。命令に従いクルアーンを聞き自分を錯乱から救い出しなさい。


2番目の例:


ある非常に野蛮な人が兵舎に入り込む。非常に然としている軍人の一緒の動きをみる。一人の動きによって一つの大隊、あるいは一つの連隊が動き出すし、立ったり座ったり歩くのを、そして撃てという命令で皆で撃つのを見る。しかし愚かさのあまり、命令や命令に従うことを理解できないから全員の軍人が糸でお互いに結ばれていると思ってしまう。その物質的な糸がどれほどすばらしい糸であるんだろうと考えて感動する。


それからイスタンブールにある巨大なアイヨソフィヤモスクに行って金曜日の礼拝に参加する。人々が一人のイマーム(礼拝の時一番前に立ち礼拝を行う人)の言葉を聞いて立ったり座ったりするのを見る。アッラーやアッラーの命令に従って礼拝を行っていることを理解できないわけだからモスクにいる人々が物質的な糸で無理やり動かされていると思ってしまいどんなに愚かな考え方よりもおかしい考え方を示す。


同様に全知全能のアッラーの兵舎でありモスクでもあるこの宇宙に何よりも危ない考え方である不信心の考え方を持つ自然崇拝者が入ってくる。その全知全能のアッラーが創造してくれた宇宙の規則を物質的なことだと思ってしまい、それにすべての規則や創造物が自分以外何とも関係していないと思い込みすべての存在を自然と命名し、アッラーの永遠のパワーを示す小さな力に過ぎない自然を全知全能のアッラーと間違ってしまう。これは最低な行いである!


結局、自然崇拝者が証拠なしで“自然”と呼んでいるものは実際に存在しているとしても芸術品であるが芸術家であるはずがない。


刺繍であり刺繍家であるはずがない。
規則集であり支配者であるはずがない。
法であり立法者であるはずがない。
創造物であり創造者であるはずがない。
述語であり主語であるはずがない。
規則であり力ではない、全能であるはずがない。
字であり鉛筆であるはずがない。

 

 

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