イスラーム勉強シリーズ

 

 ラマダーンについて

 

この部分では、ラマダーンにおける多くの英知のうち、九つの英知を示す。九つのポイントからなるものである。

「ラマダーンの月こそは、人類のよき導きとして、また導きと(正邪の)識別の明証としてクルアーンが下された月である。」(雌牛章185)

第一のポイント
ラマダーン月のサウム(斎戒)は、イスラームの五行のうち第一にくるものである。イスラームを象徴するもののなかでも、最も偉大な存在でもある。


ラマダーン月における断食には多くの英知が秘められている。アッラーが、全てのものを与えられまた教えられるお方であるということや、人間の社会生活、個人的な生き方、自己の訓練、そしてアッラーのさまざまな恵みに関する多くの英知がそこに存在するのである。


アッラーが、全てを与えられ全てを教えられるという点における、断食に秘められた神意とは次のとおりである。
「アッラーはこの地上を恵みの食卓として創造され、さまざまな恵みを、彼らが考えつかないところから」(離婚章3)という形で与えられる。それによって、教えられるお方としての完全さと慈悲深さ、慈愛深さを示されているのである。人々は、不注意さという覆いの下で、原因と結果ばかりが重く見られる世界において、こういった状態が示している真実を見ることができなくなっている。時にはそれらを忘れてしまいもする。


ラマダーン月において信仰する者たちは、規律正しい軍隊のようになる。偉大な支配者の晩餐会に招かれたといった形で、日没前、「どうぞ」という命令を待ち、しもべとしてふさわしい態度をとることになる。憐れみ深く、また荘厳で偉大な、しもべたちを護られるこのお方に対して、壮大で秩序ただしい形の、しもべとしての行為によって、お礼を申しあげているのだ。


このような崇高な行為、名誉ある行為に加わらない人たちは、人という名前にふさわしい存在であろうか?

第二のポイント
聖なるラマダーンにおけるサウムには、アッラーの恵みへの感謝という点で多くの英知があるが、そのうちの一つが次のとおりである。


これまでにも述べたことであるが、皇帝の厨房から給仕が運んできた食べ物は、どれもその見返りを必要とする。給仕人にチップを払うことによって、とても価値のあるこの恵みを大したこともないかのように考え、その恵みを与えてくださった存在を知らずにいることはこの上なく愚かな行為である。これと同様に、アッラーは無限の、多種多様の恵みを人類の為に、地上に広げられた。これに対して、これらの恵みの見返りとして、感謝を求めておられる。こういった恵みの外見上の要因、持ち主は、給仕ということになる。われわれはこの給仕に対して費用を払い、彼らに対して恩を感じる。彼らにはそんな権利はないのにもかかわらず、時には我々は彼らに大いに敬意を払い、感謝をしたりしている。


しかし、真に恵みを与えられるお方は、こういった要因よりもはるかに、この恵みに対する感謝にふさわしくあられる。その存在に感謝することは、この恵みがそのお方からのものであると知ること、その恵みの価値を知ること、そしてそういった恵みを自らが必要としていることを感じることによってなされる。


ラマダーン月における断食は、真の、偽りのない、大きく広い感謝への鍵となるものである。なぜなら、ラマダーン以外において、そうする必要に迫られていない人の多くは、真の空腹を感じないことによって、この恵みの価値を理解できないからである。味気ない一つのパンは、おなかが空いていない人にとって、特にその人が金銭的に裕福である場合、そこにおける恵みの価値は理解されない。しかし、断食あけの食事を取る際には、その味気ないパンは信者にとって貴重なアッラーの恵みと感じられることは、味覚も証言しているのである。


支配者から最も貧しい人々まで、皆が、ラマダーン月においてこの価値を理解すると共に、感謝の心に達することができるのである。


更に、日中の食事に喜びを感じることにより、「この恵みは私のものではない。私はこれらを好き勝手にする自由を持っているわけではない。他の誰かのもので、恵みである。私はその命令を待っている。」と感じ、恵みを恵みと知り、感謝するのである。


こういった形で、断食は、人間の真の任務であるアッラーへの感謝への鍵となるのである。

第三のポイント
断食は、人間の社会生活に関しても多くの英知を秘めており、そのうちの一つが次のものである。


人は、この世での生活においてさまざまな状態に創られた。アッラーは、そういった違いによって、裕福な者が貧しい者に手を差し伸べるよう招かれておられるのだ。裕福な者は貧しい者のつらい状況やひもじさなどを、この断食において空腹を感じることによって、確かに感じることができる。もし断食といったものがなければ、自己に執着する金持ちばかりになり、ひもじさや貧しさがどれほどつらいものか、彼らがいかに憐れみを必要としているか、ということを把握することはできないだろう。こういった、人の、同類である人に対する憐れみは、真の感謝の基本でもある。誰であれ、自らよりも更に貧しい状況にある人を見出すことはできる。その人に対する憐れみは彼の義務である。

 

もし、自らの自我にこういったひもじさを味あわせることがなければ、憐れみによって助け合いの義務の為に援助をすることができなくなる。それを行ったとしても、あるべき形ではできない。なぜならその真の状況を、彼の自我は感じてないからである。

第四のポイント
ラマダーンにおける断食は、自我の鍛錬という点でも多くの英知を秘めており、その一つは次のとおりである。
自我、自己の欲望というものは、自由で思い通りにあることを望み、またそのように認識している。自分が全ての物を与え、導くことのできる存在であるかのように妄想し、思い通り気ままに振るまうことを望む。それはその特質でもある。無限の恵みによって導かれてきたことを考えたがらない。特に、この世において富や権力をもっていて、その上に不注意さまでが加わるのであれば、強引に、強盗のようにアッラーの恵みを奪いつくすようになる。


しかし、ラマダーン月においては、最も裕福な者から最も貧しい者まで、全ての人々の自我は、次のことを知ることになる。すなわち、自分は王ではなく、その民である。自由気ままなのではなく、しもべである。命令されない限り、どんなにささやかで容易なことでも行えない。その手を水に伸ばすことはできない。自分が全能であるかのような妄想は打ち砕かれ、しもべとしてあるようになる。真の義務である、アッラーへの感謝を行うようになるのだ。

第五のポイント
ラマダーン月における断食は、自我、自己の欲望を正しい形に直すことや、考えのない行動を改めることといった点においても、多くの英知を秘めている。そのうちの一つが次のとおりである。


人の我執は、不注意さによって自らを忘れる。内に秘めている限りのない無力さ、弱さ、莫大な欠点を見ることができず、また見ることも望まない。どれほどもろく、破滅を避けることのできない存在であり、災いを受ける立場であるか、また簡単に腐敗し分解されてしまう肉と骨でできているか、考えない。はがねでできた体でも持っているかのように、不死身であるかのように、自らを不滅の存在だと空想し、この世界にしっかりとしがみつく。すさまじい欲望や欲求と共に、そして強い結びつきと熱愛をもって、この世に身を投じる。都合よく、利益のあるようなものに結び付けられる。そして、自らを、完全なる慈悲でもって導かれた創造主を忘れてしまう。この世での結末、そしてあの世での結果を考えず、悪い性質のままのたうち回ることになる。


ラマダーン月における断食は、最もうかつな者、最も頑固な者にまで、己の弱さと無力さを示すものとなる。空腹であることによって、自らの胃について考えるようになり、自らの胃が必要としているものを知る。その無力な肉体が、いかにもろかったかに気づく。どれほどの慈愛や哀れみを必要としているかを認識する。自我が支配者となることをやめ、徹底したその弱さ、無力さのうちに、アッラーの庇護の下に助けを乞い求めることを望む。感謝という手で、慈悲の扉をノックする用意を整えるのだ。もし、不注意さがその心を既に破壊していなければ!

第六のポイント
ラマダーン月における斎戒は、クルアーンの啓示に関して多くの英知を秘めている。またラマダーンがクルアーンにとって最も重要な、啓示の時であったことに関しても、多くの英知が秘められている。そのうちの一つが次のとおりである。


聖クルアーンは、ラマダーン月にくだされた。クルアーンの啓示の月と知ることによって、この天からの呼びかけによい形で応えるため、ラマダーン月において、自己の無力さと、多くのものへの依存性や、価値のない状態から脱却し、飲み食いを放棄することによって天使の状態にすら似ること、そしてある意味クルアーンがあたかも初めて啓示されているかのようにそれを読み、聞くこと、それにおけるアッラーからの呼びかけがをあたかも今行われて行われているのだという思いで聞くこと、その呼びかけを預言者ムハンマドが我々に聞かせてくださっているという思いで聞くこと、これらによって、おそらくは聖ジブリールから、あるいは、言葉の持ち主であられることにその始まりが存在しないアッラーから、拝聴しているかのような聖なる状態をもたらす。


そして自らが通詞となって他の者にもこれを聞かせること、クルアーンがくだされた神意をさらに深く示すことにもなる。


ラマダーン月において、イスラーム世界はあたかも一つの礼拝堂のようになるのである。何百万人ものハーフィズたちがその偉大な礼拝堂のあちこちで、クルアーンを、天からの呼びかけを、望む者たちに聞かせている。

 

全てのラマダーン月は 

“ラマダーン月こそは、人類の導きとして、また導きと(正邪の)識別の明証としてクルアーンがくだされた月である。”(雌牛章185)
という節を、輝かしい形で示している。ラマダーンが「クルアーンの月」であることを証明している。この大きな集団の、残りの人たちも、ハーフィズたちの読誦を聞いたり、自ら読んだりしている。


このような状態にある聖なる礼拝堂において、欲張りな自己に従い飲み食いすることによってその輝かしい状態から外れてしまうことがいかに醜いことであると同様、またその礼拝堂にいる集団からの嫌悪の対象になってしまうことと同様、ラマダーン月において斎戒している人々と対立する者たちも、イスラーム世界全体の精神的な嫌悪と侮蔑の対象となるのである。

第七のポイント
ラマダーン月における斎戒は、この世界に、あの世のために栽培・収穫と取引を行なうべくやってきた人間にとってためになるものが多い。この点における多くの英知のうちの一つが、次のとおりである。


ラマダーン月における行為への報奨は、千倍もの価値を持つ。聖クルアーンは、ハディースによる明証によると、それぞれの文字に10の善行を含み、10の徳と見なされる。10の、天国の果実をもたらすのである。


ラマダーン月においては、それぞれの文字が10ではなく千になり、一部の(Ayatul Qursiのような)節においてはそれが何千にもなる。ラマダーン月の金曜日にはそれ以上となる。みいつの夜(ライラトル カドル)においては3万にもなるのである。


一つ一つの文字が3万もの、永遠の果実をもたらすクルアーンは、輝かしい天国の木のような意味を持つのである。何百万もの不滅の果実を、ラマダーンにおいて信者たちに獲得させるのである。


さあ、来てみなさい。この、聖なる、不滅の、益の多い取引について観察し、考えてみなさい。この文字群の価値を評価しない人々がどれほどの損をしているか、理解してみなさい。


ラマダーン月はあたかも、あの世のための取引のために非常に益の多い展示場であり、市場のようである。そして、あの世での収穫のための肥沃な地面のようである。行動が成長を遂げていくための、4月の春雨のようである。支配され、教えられるお方の壮麗さに対して、人間の崇拝行為やしもべとしての振る舞いの式典が行なわれる、最も輝かしく荘厳な祭りという意味を持つ。そうであるからこそ、飲み食いといったような自我の不注意さや動物的欲求、何ものも生み出さない違法な快楽への追求といったようなことに入っていってしまわないよう、断食という任務をも負わされたのである。


はかないもの、動物的なものから脱却し、天使のような状態になり、あるいはあの世のための取引を行っているのであるからこそ、この世で必要としているはかないものを放棄し、あの世的な人となり、また死体から、一つの魂としての状態であるようになり、斎戒によって、アッラーが全ての必要を満たされ、またアッラーは何ものをも必要とされないことをうつす鏡のようになるのだ。


ラマダーン月は、このはかない世界、はかない一生、そして短い生涯のうちに、終わりのない生と永遠の命を獲得させるのである。一回のラマダーンで、80年の生涯に相当するほどの果実を得させるのだ。みいつの夜が、クルアーンにおける明証により、千の月よりもなお価値があるものであるとされていることが、このことの明らかな証明である。


支配者は、その王位の期間中、毎年支配者の王位継承の記念として、あるいは何か別の、その輝かしい領土に応じた形で、何日かを祝日にする。その日においては、その民を、一般的な規則の範疇ではなく、特別の慈悲によって、直接その御前に、特別の恵みに、驚くほどの営みに、まさにそれにふさわしい誠実な人々を、その特別な愛情へといたらせるのである。


それと同様に、始まりもなく終わりもない王であられ、一万八千の世界の偉大な皇帝であられるアッラーは、その一万八千の世界を方向付けている高貴な勅令である聖クルアーンを、ラマダーン月にくだされたのである。
当然このラマダーンが、特別なアッラーの祝日であり、アッラーの顕示であり、魂の礼拝堂という意味を持つことは、アッラーの英知がそれを要しているものなのである。


ラマダーンは祝いの日である。程度の低い、動物的な行動から人々の身を引かせるために斎戒が命令されるのは当然のことであろう。完璧な断食においては、胃と同様、全ての感覚、目、耳、心、想像、思考といった人間の器官の全ても、一種の斎戒をしているのである。つまり、禁じられていること、何者をも生み出さない無意味なことなどから身を引かせ、それぞれにふさわしい形で、しもべとしての振る舞いを行なわせるのである。
例えば、舌を嘘や陰口、醜い表現から引き離し、それによって舌にも斎戒をさせること。

 

そしてそれを、クルアーンの読誦やズィクル、預言者のためのドゥアーや許しを請うことなどに使わせること。また例えば、目をハラームになる異性を見ることから引き離し、耳が悪いことを聞くことを防ぎ、目を教訓へ、耳を正しい言葉やクルアーンへと向けること。これらと同様に他の器官も、一種の斎戒を行なわせることになる。そもそも胃は、最大の工場である。だから、断食によってその仕事を休ませてやれば、他の小さな作業場群も、容易にそれに従わせることができるのである。

第八のポイント
ラマダーン月には人間の個人的生活に関する多くの英知が秘められており、そのうちの一つは以下の通りである。


人間にとって最も重要な薬とは、精神的・肉体的な精進である。医学的には食事制限とされる。人の自己が飲み食いといったようなことにおいて好き放題に振舞い続けることによって、肉体的な害を生み出すのと同様に、ハラールとハラームの区別もせず目の前にあるものに手あたり次第に飛びつくことは精神的にも毒となる。
心や魂の声に従うことは人の自我にとって厄介であり、その高慢さが手綱を操ってしまうことになる。人は自らの自我を操れず、自我が人を操るようになる。


ラマダーン月においては、断食をすることによって一種の食事制限に慣れることになる。自我の欲望は区切りを付けるよう努め、命令に従うことを学ぶ。無力な胃に、消化しきれないほどの食べ物を詰め込み、病気の元を作ることもなくなる。


命令に従って、ハラールをも放棄することによって、ハラームであるものを避けるという点においても、賢明さと、法からもたらされた命令に従う能力を身につけることになる。精神生活を破壊することもなくなるのである。
人間の圧倒的大多数は、空腹というものから非常に苦痛を味わう。忍耐、我慢に対して厳しい試練となるこの空腹は、自我の欲望の克服を必要とするものである。ラマダーン月における15時間、断食前の食事を取らずに行えば24時間続く、食を絶っている時間の為の忍耐であり、我慢であり、自我の克服であり、そして鍛錬である。


つまり、人の災いを倍化させる忍耐のなさ、我慢のできなさへの薬もまた、この断食である。


胃という工場には、多くの従事者が存在する。それにかかわりを持つ器官も多い。人の欲望が、この一ヶ月間の昼間、休みを取ることがなければ、それに従事する存在や、それが本来おこうなうべき崇拝行為を忘れさせることになってしまう。自らのことばかり行うようになり、それらを無理やり支配してしまう。


他のそれぞれの器官も、この工場の歯車から出る騒音や煙の中で混乱し、常にその注意が自らにのみ向けられるようになる。崇高な任務を忘れるようになってしまう。


昔から、聖人と呼ばれる人たちが、自らを成熟させる為、自我の鍛錬や、食事を制限することを自らに課し、それに慣れさせる様にしたのは、まさにその為である。


ラマダーン月の断食によって、胃という工場の従事者は気づくことになる。自らは、ただその工場の為だけに創造されたのではないということに気づくのだ。他の器官も、その工場のくだらない快楽よりも、ラマダーン月における、魂の喜びを好み始める。その視線がそれに向けられるようになる。ラマダーン月に信者たちがそれぞれに光を帯び、精神的糧を得、魂の喜びを得るのはこの為である。心や、魂や、思考は、この素晴らしい、聖なる月の断食によって大いに発展し、豊かになる。胃が痛んでいるにもかかわらず、彼らは穢れない状態で、微笑んでいるのである。

第九のポイント
ラマダーン月の断食は、それ自体が、人の自我の自分が支配者であるかのような妄想を打ち砕き、その無力さを突きつけることによってしもべであることを自覚させる。これにおける英知のうち一つは、以下のとおりである。
 人の自我は、それを導くアッラーの存在を知ることを望まない。尊大に、自分が導き手であることを望むのである。どれほどの罰を受けても、それを頑固に続けようとする。


しかし、空腹によって、その頑固さもくじかれるのである。ラマダーン月の断食は直接、支配者であろうとする人の自我に打撃を与える。それを打ち砕く。その無力さを、非力さを、依存性を見せ付ける。しもべであることを自覚させるのである。


ハディースの伝承には以下のようなものがある。
アッラーは人の自我に言われた。「我は何であるか。あなたは何であるか。」
人の自我は答えた。「私は私であり、あなたはあなたです。」
 

罰が与えられ、地獄に送られた。それでも人の自我は言い続けた。「私は私であり、あなたはあなたである。」どれほどの罰が与えられようと、人の自我は自負心を放棄しなかった。


最後に、空腹という罰が与えられた。その上で尋ねられた。「我は何であるか。あなたは何であるか。」
人の自我は答えた。「あなたは私の慈悲深いアッラーであられます。私はあなたの非力なしもべです。」

主よ、預言者ムハンマドとそのご家族、教友たちに、ラマダーン月に読まれる聖クルアーンの文字がもたらす善行の数だけ、あなたの承認と、このお方の私たちにおける権利にふさわしいだけの祈りと平安があらんことを。

「あなたの主、威徳の主、彼らが配するものから(超絶なされる)主に讃えあれ。
使徒たちに平安あれ。
万有の主、アッラーに讃えあれ。」(整列者章37 / 180~182 )

 

 

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