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イスラーム勉強シリーズ |
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お子さんを亡くされた方への哀悼の手紙 |
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「彼にのみ名において、何ものも、かれを讃えて唱念しないものはない。(17:44)」
英知あるクルアーンにおいて「永遠の(若さを保つ)少年たちがかれらの間を巡り、(56:17)」の秘められた意味(神意)とは、大人になる(第2次成長を向かえる)前に亡くなられた信仰者達の子どもは、天国で永久(とこしえ)に喜びと共に、天国の住人に相応しい形で、子どもとしてすごすこと。そして天国へ行った両親の抱擁をうけ、彼らから永遠の(抱擁の)喜びを得ること。子どもを慈しみ、頭を撫ぜてかわいがるような情愛豊かな喜びが両親の信頼の源泉となる事、多種の美味なるものが天国に存在すると言う事。
「天国は子孫を育てる場ではなく、子どもを慈しみかわいがり、抱くこともない。」と言う者達の判断は真実ではないという事です。現世での何10年という短い期間でさえ、困難や苦境にあっても、子ども達を私達は慈しみかわいがり抱くのですから、汚れなく苦痛もない何百年という永遠の流れの中で、子ども達を慈しみかわいがり抱くことができるというのは、信仰者達にとって最大の幸福の源となることを、この高貴なる節「永遠の(若さを保つ)少年たちがかれらの間を巡り、(56:17)」によって明らかにし、吉報として私達に伝えています。
ある者が刑務所に服役しています。かわいい子どもが一人彼のところに連れてこられました。その哀れな受刑者は自分自身苦痛をかんじていましたが、さらに子どもの快適さが確保できない事でも心を痛めていました。しばらくして、情け深い、さる統治者が彼に使いを送り、このように語ります。「そのこはあなたのお子さんです。しかし私の国旗であり、私の国民の一人でもありますので、私が連れて行き、素晴らしい宮殿で育てましょう、」と。するとその男は泣き始め、「私の癒しの源である我が子を渡しはしません。」といいます。「あなたの悲しみなど何の意味もないものです。あなたが子どもを哀れと思う事は子どもに穢れ、傷ついた苦難に満ちた暗黒の世界を望むと言う事なのですよ。彼は広々とした幸せに満ち溢れる宮殿にいくのです。
だからこそ、私は彼のことを不憫とは思わない。彼が幸せであることを知っているから。私自身に対してといえば、渡しの自我にとっての利益の為にも、私自身にたいしても、悲しんではいない。苦悩をかんじていない。なぜなら、此の世に残ったなら、何十年間の一時的な苦しみと混同した子どもへの愛に信頼をおいた事だろうから。しかし、死によって、永遠の天国で永久に子どもを愛しつづけられ、永遠の幸せのきっかけとなる執り成し者と彼はなる。さよう、不確実な一時的な利益を失い、真の、永久(とこしえ)の利益を勝ち得る者は苦悩に満ちた悲しみを示す事はしない。絶望し悲嘆にくれる事もない。」
慈悲深き創造者の被造物そしてしもべ達はあらゆる状況下においても、彼の芸術作品であり、彼に属するものです。死去したこどもは、両親にとって友達でしたが、一時的に両親に預けられ、その父親と母親は彼の世話(奉仕)をしました。(アッラーは)両親の世話(奉仕)に対して、一時金として、味わい深いいつくしみの心を(彼らに)お与えになりました。完璧なる所有者であられる慈悲深き創造者が、その必然性ゆえに、慈悲と英知に基づきその子をあなたの手から取り去り、あなたの奉仕を終わらせ給うた場合、実に真の所有者に対し、不平を申し立て、苦悩に満ちた悲しみを示したり、絶望し悲嘆をあらわにすることは、信仰するもの達には相応しくありません。恐らく迂闊な者達や反抗する者達に相応しい(ふるまい)でしょう。
その子を彼らの手の中から連れ去った時、もし幸せで、真の信仰者達なら、此の世から顔を振り向かせ、最も恵みを与え給うアッラーを見出します。そして、こう語ります。「此の世はそもそもはかなく、心に留めるには価しない・・・」と。子どもがどこへいこうと、その行き先との関係を持とうとします。そして大いなる精神世界を勝ち得ます。
そして、迂闊さと反抗心の結果として、死が無であり、永遠の別れを想像した場合、柔らかい寝床の代わりに墓の中の土を考え、迂闊さと反抗心によって、もっとも慈悲深きお方からの天国での慈悲や恵みの園(天国の恵み)を思い出さずに、どれほど苦悩に満ちた悲しみとともに、絶望し悲嘆にくれることでしょう。しかし幸福の原因である信仰心とイスラーム(の教え)は、篤き信仰者達に申し伝えます。「死ぬ直前を迎えた我が子の慈悲深き創造主(アッラー)は彼をこの汚れた世から連れ出し天国へ送り給う。あなたに対し彼を執り成す者となし、さらに永遠の我が子と為し給う。心配せずに、別れは一時的である。
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