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アッラーの美名であり、またアッラーの美名のうちの六つの光の中の一つでもあるクッドゥースという御名(みな)についてのある明示は、シャーバン月に示された。それは、神の存在の絶対的必然性と神の唯一性についての完全な明瞭さと共に示されたのである。それは以下の通りであった。
この宇宙、この世界は常に稼動している巨大な工場であり、常に出入りのある宿舎、客室のようである。このように活気のある工場、宿舎、客室は汚物や廃棄物、ごみで汚され、悪臭を放ち始める。もししっかりと管理され、きちんと片付けられ、掃除されることがなければ、もはやその場にいることもできないような状態となる。人はその不潔さに圧倒されてしまうであろう。しかし、この宇宙という工場、世界という客室は、実にきれいで清潔であり、芳香が漂い、汚れや汚物、悪臭等ない状態なのである。不必要なもの、無駄なもの、目に付く汚れ等は存在しない。
何かあったとしても、すぐに機械にかけられ、他の物質とされ、清められる。つまり、この工場を管理するある存在は、非常によく管理しているということである。この工場には、実によく管理、整頓をされる持ち主があり、この広大な工場、広大な宮殿を、小さな部屋であるかのように清められ、管理され、整頓されるのである。さらには、これほど大きい工場からは相当量の汚染物質、ごみが出されるはずであるが、それすら見当たらないのだ。これは実に注目されるべき事項である。
一人の人間が、一ヶ月体を洗わなければ、あるいは小さな部屋でも一月掃除されなければ、とても汚れてしまう。つまり、世界という宮殿のこのきれいさ、清潔さ、輝かしさは継続的で実に熱心な清掃の賜物なのだ。もし常に管理、整理が行なわれていなかったとしたら、地上は一年のうちに何十万種もの動物で一杯になり、窒息してしまうであろう。
さらに、宇宙の崩壊した球体や衛星、星の残骸は我々を、他の動物を、もしかしたらこの地球を、我々の世界を破壊することもあり得たのだ。山々はその大きさにふさわしい巨大な石を我々の頭上に降りかからせることもあり得た。そうして我々をこの世の祖国から逃げなければならない状況にしていたかもしれない。しかし、昔から今まで教訓としてほんのいくつかの隕石が落ちてきただけであり、それにしたところで誰かの頭を割ったりはしなかったのである。
それから、この地上において種や世代の交代によって毎年十万の動物が死体となり、二十万種の植物が枯れ、これらはこの地上、海面をとてつもなくひどく汚すはずであった。それによってこれらは、好かれるどころではなくその醜悪さから嫌悪される存在になっていたであろう。無に帰す事を選ぶほどであったことだろう。
鳥が、簡単に自分の身づくろいをするように、また書き物をする人が自分のページを清めることができるように、この地上という鳥、宇宙という鳥の翼、この宇宙というページもそのように清められ、美しくなるのであり、それは、あの世の無限の美を見ない者、信仰を持って考えない人々でも世界のこの清潔さを好み、崇拝しているほどのものである。
つまり、この世界という宮殿、この宇宙という工場は、クッドゥースという神の美名を示すものである。この聖なる管理者からもたらされる命令は海中における肉食の清掃者や地上における鷲等のみにとどまらず、おそらくは蛆虫(うじむし)や蟻といった死体を集める保健係りたちもまた、従っているのである。この命令は体内を流れる血の中の赤血球や白血球にももたらされ、体内の細胞を管理しているのであり、また呼吸はその血を清めている。
その命令は、まぶたが目を守るために従い、ハエが羽をきれいにするために従うものであると同様に、空気や雲といったものもまたそれに従っているのである。空気は地上にあるちりを掃き清め、雲のスポンジは地上の庭園に水を撒き、ちりをおさめる。そして、天空をあまり汚さないうちにと、急いでごみを集め、完全なる命令によって引き上げ、姿を消すのである。天の美しい顔をぬぐい、磨きその輝かしさを示すのである。
星やさまざまな構成要素、鉱物、そして植物がその命令に従っているのと同様に、全ての微粒子、原子ですらそれに従う。驚くほどの変化や変性の中にあってもなお、それらは秩序正しさに注意を払っている。不必要なところで集まったり、余分なものがたくさん存在していたりしないのである。汚染があればすぐに自らを清める。それらは、最も清らかできちんと秩序付けられ輝かしい状態を獲得するため、そして最も美しく、純粋で気持ちのよい形であるように神意によって命じられているのである。
この唯一の動作、すなわちきれいさを保つという一つの真実、それはクッドゥースという御名を何よりもよく明示するものであり、それが、アッラーの存在と唯一性を最も美しい神の御名と共に、望遠鏡のようである目に、直接太陽のように示している。
これまでの章で絶対的な証拠と共に証明付けられてきたことであるが、ハケム(正しく裁く者)の御名、そしてハキーム(英知ある者)という御名の顕示である秩序の保持と整頓、アドゥル(公正なる者)という御名、アーディル(正しい者)という御名の顕示であるはかりと均衡、ジェミール(美しい者)の御名、カリーム(寛大なる者)の御名の顕示である美化と慈恵、ラッブ(教えられる者)という御名、ラヒーム(慈悲あまねくお方)という御名の顕示である教えと恵み、これらはそれぞれが一つずつの真実と行為であり、これらは唯一の存在の必要性と、その単一性を示すものである。
それと同様に、秩序と清潔さが保たれるという事実はクッドゥースという御名の顕示であり、それらは存在していることが確実なそのお方の存在の必要性とその唯一性を太陽のように示す。これら、秩序や均衡、美化、清潔さといったことは、それがどこにおいても同じ方法で行なわれるという点から、唯一の創造者の存在を示す。同様にアッラーのたくさんの美名はそれぞれが偉大な顕示であり、そこから現れる動作それぞれが、明らかに、そして絶対的な形で唯一の方の存在を示しているのである。
このように、全てを秩序の元に従わせる普遍の神意、全てのものを美化し微笑ませる普遍の庇護者、全てを喜ばせ、満足させる、全体を包括する恵み、全てのものを育む包括的な恩恵、そして全てのものにかかわりを持ち、恩恵を与え、支配する、命やその復活のように、宇宙に喜びを与え、光を与える真実、作用。これらは、光が太陽を示すように、ハキーム(英知ある者)で、カリーム(寛大なる者)で、ラヒーム(慈悲あまねくお方)で、レッザーク(恵みを与える者)で、ハイーユ(生ける者)で、ムフイー(生を授ける者)であられる唯一の存在を示しているのである。
一つ一つがこの存在の単一性の証拠であるこの何百もの偉大な作用が、この唯一の存在によるものだと見なさないのであれば、それは非常に厄介なことになるであろう。例として、ただこの清潔さ、秩序を保つという作用のみを考えても、つまりそれ以外の神意、恵み、命を与えること等はいうに及ばず、この清潔さや秩序が保たれるという一点についてそれをこの世界の創造者によるものだと見なさないのであれば、その時には逸脱した人々の道をいくこととなる。すなわち、この作用に関係のある微粒子、原子、ハエ、それから星といった全ての被創造物がこの宇宙の秩序や管理、均衡、清潔さの保持について理解し、それについて考え、それに基づいて行動できる能力を持っていることが必要となる。
あるいは、それぞれが神聖なる創造者としての特徴を持つ必要がある。あるいはまた、この宇宙の美化、清掃、もたらされるものや費やされるものについての調整をするために宇宙全体規模の会議が開かれ、そこに無数の原子やハエや星たちが出席することが必要となるであろう。このような馬鹿げたあり得ないことを持ち出してくる必要が生じるのである。各々においてこのような普遍的で偉大な管理能力、浄化や美化の力があると見なすことは、無数の不可能さを生じさせるものである。例えばもし、昼間の光や地上における多くのものに見られる輝きが太陽に帰されなければ、その場合地上にある全てのガラスや水のしずく、雪片において、あるいは空気中の原子においても、一つ一つ太陽が存在することが必要となる。そうしてやっと、この普遍的な光は存在することになるのだ。
神意もまた光である。全てを包括する恵みも光である。美化、管理、秩序、浄化、それぞれが一つの光であり、この無限の太陽からの光線である。逸脱や信仰への憎悪がいかなる底なし沼に落ちていくかを見てみなさい。この逸脱にある無知は、どれほどの愚かさであるかを見なさい。そして言いなさい。「イスラームの教えと、私に与えられた信仰とに感謝します」と。
この宇宙の宮殿を清潔に保たれるこの偉大で普遍的な浄化者は、クッドゥースの御名の顕示であり、要求されるものである。全ての被創造物はこの御名を見ており、また全ての浄化作用はこのクッドゥースの御名を必要とする。ハディースで次のように語られているのも、そのためである。
「清潔は信心の一部である」。このハディースは、清潔さを信仰の光からのものと見なしているのである。そして
「誠にアッラーは、悔悟して不断に(かれに)帰る者を愛され、また純潔の者を愛される」(雌牛章222)
という節も、清潔さがアッラーの愛を引くものであることを示している。
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