イスラーム勉強シリーズ

 

 サイード・ヌルスィー

 
さて、1914年10月31日ロシア軍が東アナトリアに侵略し始めた。これが大戦の開始である。サイードは東部戦線の激戦地で彼の仲間ともに勇敢に戦った。前線でのサイードの著作、注釈書「奇跡の印」を筆記し、最後まで共に戦い、戦死したモッラハビーブや兄アブドッラーの息子アブドゥルラフマーン、等々、多くの彼の信奉者が戦った。彼らの善戦むなしく、1916年3月ビトリスはロシア軍の手に落ちた。そこで、足を骨折したサイードも捕虜の身となった。それからロシアのコストゥルマの捕虜収容所で約2年間を過ごした。そこでニコラス将軍に敬意を払わなかったとして、死刑宣告を受けたサイードだが、彼の最後の礼拝を見た将軍が、サイードの死をも恐れぬ信仰の強さを理解し、彼に許しを求め、死刑が取りやめられたという出来事がアブドルラマーンによって伝えられている。彼は、確かにアッラー以外何物も恐れなかった。


 1918年ロシア革命の混乱に乗じて彼は脱出した。ワルシャワ、べルリン、ウィーン経由でイスタンブールに戻った。その年の8月12日、公共機関として設立され「ダールル・ヒクメトゥル・イスラーミヤェ」(イスラーム学問協儀会)のメンバーになるよう求められた。彼は拒否したが周囲の以来により、カリフ制が廃止され、この機関が閉鎖された1922年11月までメンバーであり、尽力を尽くした。


 彼は1920年3月5日設立されたアルコールなど悪癖対策非政治組織、緑三日月社の創設者であり、1919年2月15日に設立されたマドラサ教員協会(ジェミイェティ ムデッリスィーン)でも熱心に活動した。


このころ、1918年から1920年にかけて、彼の内面的変化が見られる。精神的に彼はより高度な段階へと進むちょうどつぼみの時期でもある。彼は真理を哲学、科学を通して見つめなおしてきたが、実はそれでは真の光を見出せないことに気がついたのである。預言者(彼の上に平安あれ)の夢とイマムラッバーニーのマクトゥバートという書により、唯一の導き(先生)はクルアーンであることにたどり着いた。エリートのための方法ではなく、すべての人が学べる何かを彼は求めた。そして、リサレイ・ヌール収集の執筆を考えは決めた。


オスマン帝国は第一次世界大戦に破れた。1919年5月15日、ギリシャがイズミルをした。後にフランス、イタリア、イギリスが主な都市を占領したが、パーディシャー・ウェフデッティンは手をこまねいて診ていた。そのときイズミルへの侵略に対してある新聞記者が武器を手にし立ち上り、独立戦争が始まった。オスマン帝国内のクルド人たちはクルディスタン進行協会(クルディスタン・テアリー・ジェミエティ)から、クルドの国を作ろうとという誘いに「クルドの土地が作られるべきではなく、オスマン帝国が再生されるべきだ。」と答え、民族主義を真っ向から否定した。


イスタンブールで、イギリスに対しては、「第6ステップ」を記し、イギリスが二枚舌の裏面工作をし、その陰険な提案に答えるにはどうすれば良いかを述べた。彼は毅然として、イギリスと戦った。


「第6ステップ」を読んだ新政府高官達は彼らに加わるようサイードをアンカラに招待した。彼は中座していた東アナトリアでの教育改革、大学設立を訴え、新政府に承諾された。彼は後にアンカラでの様子を「人々の信仰の士気はギリシャへの勝利で高揚していた。しかし、無神論の激しい電撃が、彼らの精神を毒し、破壊しようとしているのがわかった。おお神よ、この怪物は信仰の柱を傷つけようとしている。」と記している。そう、アンカラはこの後、無信仰の嵐が吹き荒れることとなる。サイードの礼拝の重要性を政府高官の前で述べた説教により、影響を与えた。初代の大統領ケマル・パシャは礼拝を個人的問題であるという見解をだしたため、彼はロシアのニコラス将軍と同様に、ケマル・パシャにも対応し、彼の進める要人職を蹴り、1923年4月17日付けの切符でヴァンへ向かった。この切符は旧サイードから新サイードへの切符となった。後に彼はこう述べている。「私は今までの政治的、社会的生活を捨て、その後信仰を救う方法を模索するために生涯を費やした。」

 

 

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