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ヴァンでは弟アブドルメジドと共に暮らした。ヴァンでのサイードの変化は顕著だった。彼は政治やこの世界のことよりも人々の信仰を救うことに必死だった。新サイードの最初の著作は「メスネヴィー・ヌーリヤェ」だった。1925年シェイフ・サイード・パル(サイード・ヌルスィーとは別人)が反乱を起こした。サイード・ヌルスィーはこの乱に加わろうとしていたヴァンの人々に、「あなた方が戦おうとしている兵隊達はこの祖国の息子達だ。ハサンでありフセインである。彼らを殺すというのか?彼らは私の友人であり親族でもある。そしてあなた方の友人でもあり、親族でもあるのだ。あなた方はシャリーアを望んでいる。しかし、あなた方が今しようとしている行動はシャリーアにまったく反する。シャリーアを道具にしてはならない。そのように求めることは行けない。シャリーアの鍵は私と共にある。さあ諸君」、家へ戻りなさい。」と反乱に参加してはいけないと説いた。彼らは彼の警告を受け入れ、反乱に加わらなかった。ヴァンの人々の多くの命が救われた。
1926年、反乱には加担しなかった影響力のある宗教者や種族の長たちは無実にかかわらず流罪となった。サイード・ヌルスィーもその中の1人だった。西アナトリア、ヴァン、トラブゾン、アウル、エルズルム、イスタンブール、イズミル、アンタリア、ブルドゥルそしてイスパルタへと転々とさせられた。そして、1926年の冬バルラへ移された。
バルラでの最初の一週間は、村人ムハージル・ハーフズ・アフメットの家で過ごした。
それから2部屋の家に住んだ。バルラは大変美しく、彼の家の背後には山々が前方にはエイディル湖が広がっている。4キロ離れたとこりにチャムダウ(松山)がある。彼は山の中や果樹園を散策して多くの時を過ごした。松山をしばしば訪れ1930年以後はほとんど独りで過ごすことが多かった。彼は一日に1〜2時間、執筆活動を続けた。彼は手書きが余り得意とはいえなかった。にもかかわらず、彼の作品がスピーディー出来上がったのは彼には「ペンの英雄」ともいえる筆記の達人達がついていたからである。サイード・ヌルスィーが語るのを、同時に書き取った。そして、原文を何部も手書きで書き写した。それらの写しは村から村へ、町から町へ、やがてトルコ全土に広がっていった。このような方法で「言葉」という作品も全国に急速に広がり読まれるようになった。彼らの熱意と手(努力)によって、可能となった。
バルラに到着した1〜2ヶ月後、リサレイ・ヌール収集の最初の部分を書き終えた。「クルアーンの奇跡」である。リサールヌール収集は順番に直接的に節を明らかにしていくのではなく、節を1つ取り上げ、信仰についてのいろいろなたとえ、比較、説明により、読者自らがその節をより深くより広い視野で熟考できるよう配慮されたクルアーンの注釈書である。
果樹園やアーモンドの花が咲くころ、散歩をしていたサイード・ヌルスィーは、突然第30章50節が頭に思い浮かんだ。声を振り絞り大声で何度も何度もこの節を叫びながら歩きつづけた。40回繰り返しただろうか。その後家に戻り、ハーフズ・テウフィークと共に「第10番目の言葉」を書き上げた。彼が語りテウフィークが筆記した。このようにして、書きあがった、復活と来世に関する「第10番目の言葉」は、彼の5~6年間の精神的模索の賜物である。この時期彼は「10の真理」も執筆した。
バルラの春は雨がふる。晴れているかと思えば、突然曇りだし雷が鳴り、雨が降る。ある日彼がいつものように散歩をしていると、雨が降り出し、途中立ち寄った村で偶然フセインにあった。このとき、彼は後に天国の園と呼ばれる彼の庭で、天国についての「第28番目の言葉」を書いた。
彼はバルラから孤独であると数通の手紙を友人達に送っている。しかし、山の静けさの中で孤独な暮らしが彼を精神的にはより高めた。
さらに、アブドルラフマーンの死の知らせは、彼をよりアッラーへと向かわせることとなった。兄の息子、彼のいとこであるアブドルラフマーンを友として、教え子として、息子のようにこよなく愛した。彼の死後、サイード・ヌルスィーはこう語っている。「私のこの世界の半分は母の死によって、残りの半分は今、アブドルラフマーンの死と共に消え去った。彼は永遠なる者はアッラーのみと繰り返した。そしてこのとき第28節88章の意味を体得したのである。
サイード・ヌルスィーはまた手紙の中で、彼の間違いや悪い点を自由に述べることを望んでおり、大切なのは真理であり、真理のために必要なら間違いを指摘すべきであるとみんなに伝えている。師弟が同じフィールドで意見を交換し合うこの開かれた学び方は注目すべきであろう。
こうして、手書きで原文を書き写すという地道な努力により、リサレイ・ヌール収集の読者は急速に広まっていった。手書き部数はなんと60万部にまでなった。
1934年、この広がりを警戒した政府は、イスパルタにサイード・ヌルスィーを移した。ここで、老いた者たちのための「26番目のひかり」が完成した。
1935年、4月25日彼は突然捕らえられ、5月12日にエスキシェヒルへ送られた。ここでは、「28番目から29番目の光」「第1、第2の光明」が書かれた。彼は刑務所をモスクに変えた。服役中の多くは、礼拝をし始め、信仰を持ち始め、クルアーンやリサレイ・ヌール収集をいっしょに学んだ。ここでの有名な話としては、ある金曜日のこと「私は今日、アクモスクで金曜礼拝をしなければならない。許可していただけますか?」という.イード・ヌルスィーの申しでにもちろん答えは「いいえ」だったが、彼はその日の昼、アクモスクの最前列の右端に位置し、集団礼拝を行い、そして、また刑務所に帰った。実際に多くの人が彼をモスクで見た。
さて、彼は法廷では「リサレイ・ヌール収集から人々が信仰についていろいろな面からから学ぶことで、社会の安全と平和を確立できます。信仰とは、良い性質の土台であり、公的な規則を破壊はしません。性質の悪さのために、信仰のなさこそが、それを損ないます。」と述べた。11ヶ月後、彼は釈放された。
そして、1936年3月イルガズ山脈のカスタモヌへ移された。最初の3ヶ月彼は警察官の家で客として滞在した。それから木造作りの家を借り、で約8年半を過ごした。冬の厳しい寒さのため、彼はしばしば病気になった。食中毒、腰痛、リューマチに悩まされた。「私にあらゆる病の神聖なる治療薬である「信仰」を与えてくださった神に感謝いたします。それが忍耐と感謝を齎すのです。」と手紙の中で語った。
ここで、「至高なる印」を執筆した。彼が旧サイードの時、構想した科学と宗教を合わせ学ぶ教育機関を熱望していたが、新サイードはその必要性は感じなかった。なぜならーサイード・ヌルスィーの近代科学の知識はリサレイ・ヌール収集のいたる所に見出すことができるからである。宇宙とその構造について、クルアーンを基礎に、科学の知識により補強しながら、彼はより真理に近づいていった。ここカスタモヌでも多くの読者を集め、若者達、婦人達の間にまで広がリ、第二のイスパルタといわれた。彼はさらに執筆も続けた。
1936年から1940年の間に、「第3〜第9の光明」「第7の光明」を、1938年か1939年のラマザンに「第8の光明」と「至高なる印」が書かれた。続いて「題8の光明」「29番目の光」のアラビア語の要約が書かれた。またエスキシェヒルで書かれた「第1の光明」と「第2の光明」の草稿を完成させた。1942年から1943年にかけて、いくつかの作品が、収集としてまとめられ、その一部はラテン文字で書かれた。そのため、高校生達の間でも読まれるようになった。
1943年9月27日、彼は捕われ、アンカラへ送られ、そこからデニズリへ移された。そこでも服役者達はエスキシェヒルの時と同様に良い変化を遂げた。
法廷で、彼は社会生活の基礎は誠実な友情、兄弟愛で結ばれ、信頼しあい、助け合い、お互いを害悪から守ろうとする人々の善行により成り立つ。そして善行は信仰により齎され、人々の心にその良心を使わない限り社会は良くならないと述べた。さらに、彼は調査委員会を結成し、調査するようアンカラに依頼し、調査委員会は「サイード・ヌルスィーには政治的活動は見られない。彼の活動には社会主義も神秘主義も見られない。作品は知識と信仰についてクルアーンの注解書である。」と報告した。そして、1944年6月16日、彼は無罪となった。2ヶ月間デニズリに留まり、エミルダウへ移された。
1944年8月、15日間アフヨンのアンカラホテルで滞在し、家を借りてエミルダウで1951年10月まで暮らした。(1948年初冬から1945年9月までを除く)ここでの暮らしが始まるとすぐ彼は重い病にかかった。礼拝だけが彼の救いとなった。このような状態でも彼は執筆を続け、「10番目のマター」が出来上がった。そして今までの作品の校正に時間を注いだ。彼の影響を恐れた当局は彼を隔離したが、この時期多くの著作が印刷され出版されていった。「若者達への導き」と「モーゼの杖」はラテン文字で印刷されため、多くの若者達の愛読書となった。
1944年冬、彼は再び捕われの身となった。寒さの厳しい、食べ物の不足した孤独なアフヨン刑務所にである。無実の、高齢の、凍えたサイード、彼は何度か命を落とかけた。しかし、病と衰弱にもめげず、エルフッジェトゥッゼフラーを書き始めた。このアフヨンでも多くの者が信仰を持ち人間として再生した。サイードにかかれば、刑務所も学び舎と化す。多くの恩恵がここでも与えられたという。こうして、20ヶ月が過ぎ、1949年9月20日、彼はエミルダウに戻った。その後、彼の無実が最高裁で見とめられた。3度の投獄、しかし判決は無罪。この点に留意してみると、彼は確かに当局に恐れられていた。しかし彼の何を恐れたのだろうか?それはサイード・ヌルスィーの信仰心の強さと誠実さ、そして人々を慈しむ心であろう。以後、サイードにはまた新しい時代がやってくる。
 
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