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最後の10年間の生活を第三のサイード時代と呼んでいる。政治的にかなり積極的に接近した時代でもあり、1950年第後半には彼の著作が合法化され全国に広く行き渡ったのを見届けることのできた時でもある。そして、死を迎える。
サイード・ヌルスィーはエミルダウに戻ってからも、以前と同じよう活動を続けた。
1950年5月14日の総選挙で民主党が圧勝した。この時サイード・ヌルスィーは民主党党首ジェラール・バヤルに祝電を送った。彼も感謝の返事を送リ返した。
1950年〜51年には宗教規制が緩和され、アザーンや巡礼、宗教学校など解禁となった。サイード・ヌルスィーも軟禁が解かれ、彼は1951年10月エスキシェヒルを訪れ、ユルドゥズホテルに滞在した。それから、イスパルタへ向かった。ここで、「リサレイ・ヌールの世界への鍵」を書いた。これは多くの手紙を集めたものである。数ヶ月の滞在後、1952年1月にイスタンブールヘ行った。再び政府はイスラーム勢力を規制し始めた。このころ、イスタンブールとアンカラでは、リサレイ・ヌール収集の読者の拡大が若い大学生の人々により盛んに行われていた。1952年「若者達への導き」をイスタンブールで出版した。ところがこれを宗教的な宣伝活動であるとし、告訴されたため、イスタンブールの法廷を彼は訪れた。3月5日まで裁判は続いた。判決は無罪だった。彼はエイディルへ戻った。このころ彼は話すのも困難なほど衰弱していた。しかし多くの若者の読者達に、いや、すべての読者達にこう書き送った。「リサレイ・ヌールのどの部分もそれは確かにサイード自身であるとあなた方に伝えよう。あなたが見たどの部分にも、あなたが実際の私に会うよりも10倍もの益を得ることになるだろう。そして、私の真の姿に出会うことになるだろう。」
さてイスラームへの規制が激しくなった1952年の5月の終わりに、郊外の丘の上に独りで座っていると、警察官がやってきて、ターバンを帽子に替えるよう警告した。彼ははこのことについてアンカラの法務大臣と内務大臣に抗議文を送った。彼の学生がこのコピーを新聞に載せたことで、彼は訴えられた。1952年11月「マラトゥヤ寺事件」が起こった。ジャーナリストのアフメド・エミン・ヤルマンの暗殺未遂後、イスラーム系新聞の発行を禁止し、発行者を捕らえた。彼は75歳だった。高齢のため体が心配ではあったが、サムソンの裁判に出かける決心をし、1953年4月25日、イスタンブールについた。しかし、病気のため3ヶ月間留まり、そこで弁明書を裁判所へ提出した。判決はまたもや無罪だった。彼は5月29日にイスタンブール征服の記念式典に参加したり、ラジオで「リサレイ・ヌールの世界への鍵」を放送したり、多くの人々が彼を訪れた。7月の終わりにエミルダウに戻った。8月にイスパルタを訪れた。彼はこの町が好きだった。ここには彼を慕う若者達がたくさんいた。日本を訪れたバイラム・ユクセルもその1人だった。彼は若者達と共に過ごした。1954年、思い出の地バルラに彼は向かった。
1955年2月24日「バグダード条約」が成立した。イラク、トルコ相互の防衛協定である。サイード・ヌルスィーはこの条約推進に一役買った。9月にはパキスタンも参加した。これはムスリム地域の平和を守る第一歩であるとサイード・ヌルスィーは喜んだ。
1956年アフヨン裁判所での判決で、レサーレヌールは合法と認められ、発行が許可された。イスパルタ、イネボル、アンカラ、他の地域でも著作は複製されつづけ、トルコ国内だけでなく、アラビア、シリア、イラン、パキスタン、ドイツでも配布された。
1956年の終わり〜57年には、イスタンブールとアンカラで、1928年より導入されたラテン文字の印刷が可能になった。このことをサイード・ヌルスィーは大変喜び、私の任務は終わったと感慨深げに語った。アラビア文字の作品は若者達には疎遠な書物となりつつあったこの時代に、イスラームの伝達において、これらの業績は特に、評価されるべきである。
1958年、東部地方で大学が設立された。彼は何度も中座したこの計画を1951年メンデレスとジェラール・バヤルに再度提案し、受諾された。そしてエルズルムに設立された。彼の念願がかなったのである。
1959年12月と1960年1月に、アンカラ、コンヤ、イスタンブールへ旅にでた。サイードは85歳の高齢にかかわらず、全国の彼の学生達からの要請にこたえ彼らに会うために旅を続けていた。1959年12月2日彼はアンカラでズベイルに会った。一度エミルダウに戻り、今度はイスパルタを訪れ2週間滞在した。1959年12月19日、弟アブドゥルメジドの招待でコンヤへ行った。メヴラーナ・ジェラルッディーンの墓を訪れた。彼は靴を脱ぎ、礼拝した。彼は泣いていた。外に出ると群集が彼を取り囲んだ。彼はエミルダウに帰った。12月30日の朝、アンカラについた。ベイルートパラスホテルに滞在し、多くの訪問客と話した。1960年1月1日イスタンブールに向けて出発した。次の日アンカラへ戻りすぐまた6日にコンヤへ向けて旅だった。もう一度メヴラーナの墓と弟を訪れた。そしてエミルダウへ、しかし11日にはまたアンカラにいた。再度エミルダウへ。
ところで、彼は預言者イブラーヒームの墓のあるウルファで死を迎えたいと以前、語っていた。1月20日イスパルタへ向かい、3月17日まで留まった。それから、2日間のエミルダウにいた。18日彼は肺炎にかかり、高熱に苦しんだ。死を予感した彼は、地祇の日の午後イスパルタへ向かった。最愛の学生達に別れを告げ、彼はウルファに行くと告げた。そして、高熱のまま車に横たわりながら、20日の朝9時に出発した。死への旅立ち出会った。エイディル、コンヤ、カラプナル、エレウリ、アダナ、ガズィアンテペを通過し等々ウルファへたどり着いた。21日月曜日午前11時だった。ウルファの人々にも大歓迎された。彼はカディオウルモスクにいるアブドッラー・ヤェーンをたずねた。彼にトルコ、アラブ、クルドの人々がイスラームの兄弟として団結するためにウルファでのイスラームの奉仕が重要であると説明した。彼の生きがいを彼の次の言葉が表している。「私は信仰というものに重きを置く。天国への熱情も、地獄への恐怖もない。人々の確かな信仰心を見ることができるなら地獄の業火の中で焼かれても構わない。体は焼かれようとも、私の心はバラの花園となるのだ。」
1960年3月23日水曜日午前3時教え子のバイラムの胸の中でウルファ市で息を引き取った。
聖クルアーンより参照
第3章159節.
あなたがかれらを優しくしたのは,アッラーの御恵みであった。あなたがもしも薄情で心が荒々しかったならば,かれらはあなたの周囲から離れ去ったであろう。だからかれら(の過失)を許し,かれらのために(アッラーの)御赦しを請いなさい。そして諸事にわたり,かれらと相談しなさい。いったん決ったならば,アッラーを信頼しなさい。本当にアッラーは信頼する者を愛でられる。
第42章38節. また主(の呼びかけ)に答えて礼拝の務めを守る者,互いに事を相談し合って行う者,われが授けたものから施す者。
第28章88節
またアッラーと一緒に,外のどんな神にも祈ってはならない。かれの外には,神はないのである。かれの御顔の外凡てのものは消滅する。裁決はかれに属し,あなたがたは(凡て)かれの御許に帰されるのである。
 
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